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【 散り散りになったもの、まき散らされたもの 】〈第3回〉

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所要時間 約 10分

[ 未来を奪われた原発避難民]


デア・シュピーゲル(ドイツ)12月22日 

▽大パニック、そして爆発

半谷正夫さんは自分のスバルの軽トラックに乗り、渋滞に巻き込まれながら何とか町から脱出しようとしていた一人でした。
消防士たちがその朝、彼の農場に来ていました。
「彼らは放射線のことなんか、何も言いませんでした。」
「避難するように、とか何とか、それしか言いませんでした。」
75歳、身長はちょうど1メートル60cmでやや猫背の正夫さんは、こう振り返りました。
彼の軽トラックには、高齢者が運転していることを示すステッカーが貼られています。
彼は突然17歳と19歳の2人の孫娘の面倒を見なければならなくなりました。
彼女たちの母親は特別養護老人ホームで働いていましたが、そのまま施設に留まって高齢の患者の世話をしなければならなくなり、父親は日本海側で仕事をしていました。


町を出たところで、彼の軽トラックはパンクしてしまいました。彼は軽トラッ クを道の脇に止め、自分でタイヤを交換しようとしました。
「車を止めて手伝おうなんて人は、一人もいなかった。」
3時間かかって、正夫さんとその妻、二人の孫娘はやっと浪江町津島の避難所にたどり着きました。普段なら30分しかかからない道のりに、たっぷり3時間以上かかりました。

シングルマザーの渡辺恵子さんと彼女の二人の息子も、交通渋滞で立ち往生しました。
彼女は自分の家が破壊されてしまうことを恐れながら、子供たちと小学校で眠っていました。
「燃料切れのため、道路に車を放棄しなければならなくなった人を何人か見かけました。
2人の女性が車を押して、道からどけようとしているのも見かけました。」
渡辺さん自身は何とか取り乱さずに我慢することができました。
「一生懸命子供たちを守ることだけ考えていました。」

馬場町長もテレビで菅首相のメッセージを確認しました。
彼はすぐに街のアラームを作動し、町内放送で自らの意志で町内に残ろうとしていた人々に警告を発しました。
午前11時までには、 ほとんどの住民が浪江町を放棄し、国道114号線を北西に向かっていました。
この時点で、福島第一原発の1号基の原子炉で最初のメルトダウンが始まり、 原子炉内の圧力は容赦なく高まっていきました。
エンジニアは必死に原子炉からの圧力を下げようと絶望的な戦いを続けていましたが、とにかくまず、彼らはバルブを開くことができませんでした。
当日昼ごろになってやっとバルブを開くことに成功しましたが、その結果放射性物質の放出が始まったのです。
この時、馬場町長と清水さんは約20キロ先にある浪江町津島に向かう途中でした。

しかし清水さんの妻は、子供たちと一緒にまだ浪江町に留まったままでした。
彼女は流れる様子の無い交通渋滞を見たとき、自宅で待機する方が安全だと判断しました。

そして午後3時36分、彼女は大きな爆発音を聞いたのです

「巨大な橋が破壊されたような、そんな音でした。」

それは原子炉1号機の爆発音でした。
この時、清水さんはなんとか浪江町を脱出していました。


▽いつわりの安心

東京にある一棟の政府の建物の中、"SPEEDI"として知られているコンピュータのシミュレーション・システムは、放出された放射性物質の雲がどの方向に動いていくか予測していました。
SPEEDIは、福島第一原発から放出された放射性物質は浪江町と同町津島を通り、北西に向け移動していくと予測していました。

この早期警戒予報は内閣府には報告されましたが、馬場町長も、そしてその他津島方面に向け避難した人の誰もが、数ヶ月経ってから初めて知りました。
彼らは福島第一原発から北西に20km離れたその場所で、ひと安心といったところでした。彼らはこの地区のコミュニティセンターと学校に収容されました。

シングルマザーの渡辺恵子さんは、調理をする係りに志願し、屋外で野菜を刻みました。
最も大量の放射性物質が降り注いだのは、津島にたどり着いて3日目の3月15日でした。
それは、原子炉3号機を格納する建屋の爆発によって、放射性物質が放出されたためだと考えられています。
その日、渡辺さんの子どもたちは放射能雨が降る中、外で遊んでいました。

この日までに津島の学校の放射能汚染は、1時間あたり20マイクロシーベルトあるいはそれ以上の値を記録し、ほとんどどこよりもひどくなっていました。

弘前大学からやって来た研究チームは、3月中旬ごろから現地で測定を始めました。その測定結果を利用し、津市地区に避難をした浪江町の人々の被ばく線量の計算を行いました。
その数値は68ミリシーベルトという高い値、または政府が緊急時の被ばく線量の限度としている値の3倍というものでした。
これとは対照的に、福島県が行った浪江町、およびその周辺市町村の人々の被ばく線量は最大でも37ミリシーベルトでした。
さらに比較してみると、原子力発電所で働く人々の被ばく限度は50ミリシーベルトです。
〈つづく〉

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〈『血涙』が流され続ける福島 〉

私自身はすっかり忘れていたのですが、最近会社の部下の一人が私にこう言いました。
「私たちが屋外の喫煙所で煙草を吸っていると、小林さんが来て『今原発が爆発したから、すぐに屋内に入れ!』と言ったんです。ああ、自分も死ぬのかぁ、とその時思いました…」
冷静に考えれば福島第一原発が爆発して数分後に、仙台まで放射性物質が飛んでくるはずはないのですが、その時はとにかく周囲の人間を屋内に退避させなければならない、それ以外の考えは思い浮かびませんでした。
その日から私たち仙台市、そして宮城県の人間も放射能汚染と向き合う生活が始まりました。

伝えられなければならない情報が伝えられなかったために、ここに出てくる渡辺さんの子どもさんたちを始めとする多くの人々が、本格的な被爆をしてしまいました。
私たちはテレビを通じ、この時政府や関係機関が何を一生懸命やっていたかを目撃しています。
「心配するようなことは起きていません。デマに惑わされないでください。」
デア・シュピーゲルのこの記事に登場する浪江町の人々は、まして子どもたちは、デマや『風評』で被爆してしまったのでしょうか?

福島の会津地方に「白虎隊血涙史」という記録があります。
2011年の今年、福島では白虎隊どころのスケールではない『血涙』が流され続けています。
そしてそれは私たち自身の、今起きている問題なのです。

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【 帰ってきたアメリカ人の先生 – 南三陸町 】

アメリカNBCニュース 12月28日


たとえどれほどの時が過ぎたとしても忘れられない大災害が今年、日本を襲いました。
津波、そして福島第一原発の事故。
9カ月を過ぎた今も、すっかり破壊されてしまった南三陸町の様子にほとんど変化はありません。
今年9月そんな町にひとりのアメリカ人女性、英語教師のキャノン・バーディさんが戻ってきました。
携えてきたのは一台のビデオカメラ。
キャノン「この建物は病院、そしてこの場所は公園、学校のクラブ活動も行った場所だったのですが…」
彼女が指差す場所には町内の瓦礫が一カ所に集められ、巨大な山が築かれていました。
そして仮設住宅が見慣れた景色になってしまいました。

津波に襲われた直後の景色がこれ、そしてこちらが現在の様子。
緑に覆われ、少しばかり慰めを感じます。
キャノン「ここで生まれ育った人々にとっては、かけがえの無い故郷なのです。この場所にとどまり、再建を目指す、それ以外に選択肢はありません。そして再建は今、やっと始まったのです。」

3月、津波は谷あいにあるこの町に、まるでバスタブにお湯を満たすようにして押し寄せてきました。
あらゆる場所から再建の槌音が聞こえてきます。
これが彼女が戻ってきて、最初に見た光景でした。
彼女は本当に特別なタイミングで帰ってきました。
それは卒業式。
日本では通常3月に卒業式が行われますが、災害のため中止されていましたが、やっと行われることになりまし た。
そして彼女は小さな希望の芽を見つけました。
次の世代が、何事にもやる気を見せ始めたのです。

悲しい出来事があったこの場所で、人々の営みは絶える事無く続いています。
キャノンがこの場所にいるのは美徳のためではなく、そうしなければならないからなのです。

NBCニュース、ショージ・ルイス

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