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【 地震、津波、そしてメルトダウン – 日本史上、最悪の悪夢は続いている 】《第6回》

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所要時間 約 12分

生きとし生けるものすべてを、無残な目に遭わせた福島第一原発の事故
「私たちの誇りは消え失せてしまった…」「仮設住宅で泣き暮らす日々…」

ヘンリー・トリックス / インテリジェント・ライフ2013年7・8月号 / エコノミスト

請戸09
請戸の沿岸部は3月11日の津波によってほぼ跡形もなく破壊されましたが、内陸部の奥の方はまだ建物が残っています。
その中のいくつかの建物は地震によって屋根や壁が破壊されています。
そして建物の開け放たれたままのドアや窓にはクモの巣が張られ、この状態を表現するのに、ゴーストタウンという以外の言葉は思いつきません。
その破壊の跡は、地震の衝撃がどれ程のものであったかを雄弁に物語っています。

請戸は浪江町の一部ですが、浪江町は人口20,000、福島第一原子力発電所の北に位置しています。
その南に隣接するのが人口16,000の富岡町です。
福島第一原発周辺の立ち入り禁止区域の面積はイギリスのヨークシャー・ダレス全域とほぼ同じくらいの面積があります。
ヨークシャー地方のハロギットやスキプトンのような町が丸ごと『捨てられてしまった』、浪江町や富岡町の現在の状況については、そのように考えれば理解が早いかもしれません。

そしてもうひとつ浪江町や富岡町の状況とヨークシャー地方との類似点は、エミリー・ブロンテの作品が描き出したようなふたつの町の孤立した状況です。
ヨークシャーは過酷な自然が、そして福島の場合は放射線がそうした状況を作りだしました。

NBC15
災害直後、私が取材のため富岡町に入った時、街の通りには人の気配はありませんでした。
丈夫そうな家畜の牛が野放しにされ、学校の校庭は放牧場と化していました。
私が派手な外装のナイトパブの店内の無残な様子に見入っていた時、突然背後に異様な気配を感じました。
驚いて振り返ると、そこにには一羽のダチョウがいて、観察するようにじっとわたしを見つめていました。
これらの動物はすべて家畜として飼われていたもので、災害後エサを与えてくれるはずの人間が消えてしまったために、食物を求めて町の中を徘徊しているのです。
その時私は白い防護服と防護マスクに身を固めており、町中でどちらの姿が異様に映るか、にわかには判断しがたいような状態でした。

捨てられた動物たちは興味深い存在である一方、憤りの原因でもあります。
3.11の3週間後、私は福島第一原発から20キロ圏の立ち入り禁止区域内にある厩舎の前にたどり着きました。
厩舎の前の草地の上には、脚を伸ばしたまま息絶えた6頭の馬の死がいが並んでいました。
生き残った馬は体中が傷だらけになってすっかり弱っていましたが、それでも私たち人間に対しては警戒の目を向けませんでした。

厩舎内の壁には馬の蹄によってつけられた傷跡が無数にあり、ここにも津波が押し寄せ、パニック状態になった馬たちが、夢中で壁をよじ登ろうとしてあがいていた様子が見てとれました。

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福島第一原発の周囲では、無残な物語が無数に生まれました。

自宅が福島第一原発の20キロ圏内にあった93歳の女性は、立ち退きを迫られても頑として聞きいれず、最後は自ら首をくくって自殺しました。
彼女は生前、この地を去るくらいなら、自ら先祖代々の墓の中に入ると語っていたのです。

そうした状況にあっても、私が避難区域内で遭遇した自然の風物の中には本来の美しさを失っていないものもありました。
かつての居住者たちが、再びこの地に帰ってくることを待ち望んでいるかのように…

私は福島第一原発近くの山腹で道に迷ってしまううち、英語で『Romantic Road(ロマンティックロード)』と書かれた道に入り込んだことがありました。
その道は紫色のアイリスが川岸に一面に咲き誇る、杉木立とカエデの木に囲まれた丘の中腹を流れる小川へと私たちを導きました。
その場所は『ささやきの小道』と呼ばれる場所で、手書きの標識には竹の樋を流れ落ちる、神の住まう山から湧き出す泉の水をぜひ賞味するように訴えていました。
水面の近くでは持参したガイガーカウンターは反応しませんでしたが、試しに下草の茂みに入れるとたちまちけたたましい警報音が鳴り響きました。
値は100ミリシーベルト、原子力発電所内の作業員であっても危険な数値でした。

NBC24
壊れたままのとある家屋の窓に、故郷を思う短い詩を綴った紙が貼られていました。
日付のいちばん古いものは、2012年の早春となっていました。
「スモモの木は、今年、まだ花がつけていません。私たちの誇りは消えてなくなりました。でも忘れないでください、春はもうすぐそこまで来ています。」

もうひとつはより厳しい内容であり、その簡潔さにおいて俳句に似ていました。

「毎日仮設で泣き暮らす…東電さんよ、ありがとう。」

ここは再び加納屋さんの仮設住宅の中です。
少なくとも加納屋さんが人前で涙を見せることはありません。
捨て去られてしまった福島の町が私にヨークシャー・ダレスを思い出させたように、彼は武骨なヨークシャー地方の男たちを思い起こさせました。
言葉を飾ることをせず、口よりも態度で感情を表すタイプの人間でした。
少なくとも彼は私の前で涙にくれて、私を困らせるようなことはしませんでした。

請戸04
それでも他とは違った表現方法ではあっても、加納屋さんの面上には絶望の思いが表れています。
そして表立っては騒ぎ立てることのない原発被災者の思いを、背負っている様子が見てとれます。

彼を知る人々は、妻をきちんと葬ってあげられない事への怒りのすさまじさと、東京電力に償いをされるという決意の固は、ヤクザの親分と変わらない程だと語ります。

現在のところ東京電力は、原発被災者が惨めな仮設住宅での暮らしを続けるしかない、その程度の賠償にしか応じない頑なな態度を取り続けています。

しかし一部分ではありますが、本当の思いを内に秘め、取り乱さないことを美徳とし、遺族としての本当の感情を露わにしないという地方に特有の価値観も、東京電力を相手にする場合にはかなぐり捨てる必要があるという見方も出てきました。
2013年2月の審理で加納屋さんはこう述べました。
「東京電力の社員にも家族がいるはずです。立場を変えて考えれば、原発被災者がどれ程辛い生活を送っているかが理解できるはずです。私たちがこれまでどれほど苦しんできたか、そして現在もどれだけの苦痛に耐えているのか、理解して欲しいのです。」

しかしその場にいた弁護士や裁判官は、石のように無表情のまま、加納屋さんをじっと見返しただけだったと語りました。
被災地以外の日本の人々の多くがそうしているように、彼らもまた原発被災者の現実から目を外らしたいのかもしれません。

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しかし加納屋さんやその他の多くの原発被災者のように、最愛の人を失い、今なお故郷を奪われたままの人々にとって、余人には理解しがたい苦痛についてほんのわずかでも理解を得ること以外、心の慰めは無いのかもしれません。

〈 完 〉

※ヘンリー・トリックスは、元エコノミスト東京支局長です。
http://moreintelligentlife.com/content/features/anonymous/fukushima
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【 内戦という名の戦争、難民キャンプ、そしてずたずたにされた子供たちの心 】〈3〉

アメリカNBCニュース 3月11日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

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レバノンのベカー渓谷では約5,000人の国外脱出をしたシリア難民が、フェイダ・キャンプと呼ばれる場所で生活しています。
AP通信のニュース・カメラマン、ジェローム・ディレイとNBC放送の番組制作者である立花由香が2日間キャンプを訪問し、まだ成年に達していない戦争の生存者がどんな生活を強いられているか、取材と写真撮影を行いました。

2歳になるシャハドがフェイダ・キャンプの外を歩いています。
彼女が1歳のとき、家族はシリアのホムスから逃れてきました。
母親のハタラがこう語りました。
「シリアでは子供たちが皆不幸な目にあっています。シャハドだけが例外であるはずがありません。」
シャハドの家族はシリアでは自分たちの家を持ち、子供たち全員が自分の部屋を持っていました。
「でも今は6人の娘と1人の息子の持ち物は、このテントだけです。」
(写真上)

9歳のモハメドは、シリア、ハレブの出身です。
モハメドト7人の兄弟、そして両親は2ヵ月前、このキャンプに到着しました。
「ぼくは、爆弾が空から落ちてくるのをみたことがあるよ。」
モハメドがこう離しました。
彼はシリアの自宅をすごく恋しく思っています。
(写真下・以下同じ)
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8歳のアイマンは、3人の兄弟、2人の姉妹と5ヵ月前、シリア、ハレブから逃れてきました。
彼女は、6メートル四方のテントで、両親と6人の兄弟姉妹と暮らしています。
ハレブでの生活は危険な上、食べるものにも事欠く有様で、それが脱出の理由でした。
彼女はキャンプ内の学校に通い、友人と遊んでそれなりに楽しんではいますが、今すぐにでもシリアに戻りたいと考えています。
彼女の夢は画工の先生になる事です。
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6歳のラニムと彼女の家族は、2月にシリア、ハレブから逃れてきました。
ハレブは治安状況が非常に悪く、食べるものも不足し、そして父親にとっては建設労働者としての仕事がありませんでした。
その父は、4人の子供たちが近くで戦いが行われていたために、もはや学校にも行くことができなかったと言いました。
「ここレバノンで少なくとも、子供たちは無事でいる事ができるのです、そして学校へも行くことができます。」
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12歳のマハムードと8人の兄弟姉妹は1年前に、このキャンプに逃れて来ました。
彼は午前8時から午後4時まで自動車修理工場で週6日間働き、週給30ドルを受け取ります。
通勤は徒歩で1時間ほどですが、すぐ下の弟のアーメド(11歳)も同じ修理工場で働き、こちらは週に12ドルしか受け取れません。
彼は教育機会を失ってしまうことを恐れ、夜学に通っています。
本当は働きたくなどないのですが、父親には仕事が無く他に選択肢は無いのだと語りました。
syr20
http://www.nbcnews.com/storyline/syrias-children/tiny-survivors-faces-endless-conflict-n49401





 

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