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【 今語られる、福島第一原発の地獄 】〈第2回〉[ 福島の50人 ]

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所要時間 約 12分

撤・退 : 撤退などすればその時こそ…
爆・発 : すべての人々の表情には、生きては帰れないだろうという覚悟が…

▽ 撤・退

白煙を上げる現場
この時点における状況について、当時の菅直人首相は、もはや打つ手が無くなったと判断した東京電力が、福島第一原発内の全従業員撤退の準備に入ろうとしていた、そう主張しています。
菅前首相は、撤退などすればその時こそ東京電力が終わりを迎える時だと周囲に語りました。
彼は2011年秋、辞任に追い込まれた後、反原子力発電に立場を変えました。
後の回想によればその時がもっとも厳しい瞬間でしたが、菅前首相は首都圏に居る3,500万人の人々の避難計画を作るため、心の準備を始めました。

吉澤氏によれば、東京電力による福島第一原発の総員退去の申し出が東京において却下された、そうした類いの話は前線で働いていた人の耳には一切入りませんでした。
しかし、東京電力の下請け作業を行っている膨大な数の企業の中には、従業員に対し、福島第一原発から撤退するよう命令した会社もあったのです。

彼らの家族もまた、他の従業員同様、家族は津波に襲われた一帯、あるいは福島第一原発の事故の影響をまともに受ける場所で生活していました。
家族と連絡が取れた従業員は一人もいませんでしたが、津波で家を流されてしまった従業員は家族を探すために福島第一原発から帰宅して行ったのです。
どの部署においても、そこに留まる事を強制されることは無かった、吉澤氏はそう述懐しました。

「私は部署を放棄するつもりはありませんでした。そこに留まり、状況を把握する必要がありました。従業員たちが自分たちの家族についてどれほど心配をしていることか、そう考えることはありましたが、自分の家族のことは思い浮かびませんでした。」

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「私たちに代われるものが、誰もいないことが解っていました。留まる事を強制された人間は一人もいませんでしたが、その場にいた全員が、最後まで取り組み続けなければならないと解っていたのです。原子力発電所を守れる人間は、私たちだけだという事が解っていました。考慮の余地など無かったのです。」

吉澤氏にとって最もつらかったのは、危険な事故現場に部下を送り込むことだったと語ります。
福島第一原発は度々強い余震に襲われ、電気装置付近の水には感電の危険があり、そしてもちろん、放射線障害の危険性がありました。

津波が襲った翌日、福島第一原発の施設は2号機で起きた水素爆発により、再び大きく振動しました。
そして数日のうちに、別の2基の原子炉も爆発を起こしてしまったのです。

「何人もの作業員が水素爆発によって負傷しました。なのに危険な場所に戻るよう部下に命じるのは、本当につらい決断でした。
しかし吉田所長は誰にも、不可能なことをしろとは命令しませんでした。
そんなことをすれば、人命を危険にさらすだけだという事が解っていたのだと思います。
そうする代わり所長は、私たちが団結して事故処理に取り組めるようにしたのです。」

▽ 爆発

吉澤氏が福島第一原発から5kmの場所にある危機管理センターに移動したとき、つかの間の平安が訪れました。
しかし彼がその場所にいた間に、事故は一層深刻な様相を帯び始めていたのです。

1号機爆発
加熱しすぎている燃料棒の温度を何とか下げようと、現場では冷却水を原子炉内に直接流し込めるようにするための作業を続けていたのですが、2度に渡り原子炉建屋で発生した爆発により、すべての努力が水の泡と化してしまったのです。

危機管理センターに移動して3日後、吉澤さんとその同僚たちは、この上は福島第一原発の現場に再び戻る他は無いと思い定めました。
吉澤さんたちが再び戻ったことにより、福島第一原発の事故現場では消防士、警察官、自衛隊員、そして東京電力関係者が一体となって事故と戦うことになりました。

「第二次世界大戦中の特攻隊員のように、自分のすべてを事故処理に捧げる覚悟でした。」
その時の気持ちについて、吉澤さんはこう語りました。

「事故現場に居並ぶ人々は、多くを口にしませんでした。でもそこにいたすべての人々の表情には、生きては帰れないだろうという覚悟が表れていました。」

この頃から海外のメディアが吉澤さんたち現場で戦っている人々を『フクシマ・フィフティ / 福島の50人』と呼ぶようになりました。
実際に現場にいたのは数百人で、大気中を浮遊する放射線被ばくを極力少なくするためには、短時間で勤務を交代する必要がありました。

「『福島の50人』については耳にしました。しかし実際に居たのは数百人で、現場には私が考える以上の数の人々がいました。そして、誰もが覚悟を決めていたのです。」

続く何週間もの間、『福島の50人』たちは延々と繰り返される勤務シフト、頭のてっぺんからつま先まで覆う防護服を身に着けての長時間労働、そして放射線防護対策を施された建物の床で眠る不快な夜に耐え続けました。

災害規模は大きく、福島第一原発内の器材は何もかも不足していました。
ある場所では現場内を行き来するための防護服が不足し、一人一人の被ばく線量を計測するための線量計は津波に流されてしまっていました。

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「通常なら外部に注文することが出来ますが、私たちがいた場所は原子力災害の現場の真ん中でした。しかも東日本全域が災害の真っただ中にあった当時は、誰も福島第一原発に近づくことなどできなかったのです。」
「あるもので何とか間に合わせるしかありませんでした。」

最初の内、口にできるものといえばビスケット、そして乾燥食品の類だけでした。
多数の自衛隊員が津波のがれきの中から遺体を探し出す懸命の作業を行っている以上、緊急時の補給を期待することなど問題外でした。
水も不足し、備蓄されていたカップ麺に入れるお湯さえなかったのです。

〈『 喪・失 』に続く〉

http://www.guardian.co.uk/environment/2013/jan/11/fukushima-50-kamikaze-pilots-sacrifice?INTCMP=SRCH
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久しぶりに写真集を見て感動しました。
下にご紹介した写真はカラー写真でありながら、セピア色を基調にしているせいか、強烈な郷愁をかきたてます。

私が少年時代を過ごした昭和30年~40年は、現在は『都会』になってしまった仙台市中心部にもそこら中に野原がありました。
私の場合、仙台駅周辺も子供時代の遊び場の中に含まれていました。
当たり前のように線路の上に蒸気機関車が並んでいた仙台駅、その木造の駅舎のコールタールを塗ったこげ茶色の板は、見慣れた景色のひとつでした。

ご紹介する写真集と自分の体験の間はよほどかけ離れているはずですが、一瞬のうちに結びついてしまったのですから、写真とは不思議なものです。

最後の列車の連結部分と若者たちの足。
たぶんタダ乗りだからこんな場所にいるのでしょうが、若い時自分にもあった放浪願望、その思いが見事に表現されていると思います。

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【 マイク・ブロディー写真集[若き日の輝き]】

ジェシー・ウェンダー / ザ・ニューヨーカー 1月29日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

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マイク・ブロディーは芸術家になろうなどとは、一度も思ったことは無いと語りました。

しかし彼は5,000マイル(約8,000km)を列車で旅し、フィラデルフィアでは売れないロックバンドと共同生活をし、ポートランドでは絶対菜食主義者たちと暮らし、そのすべてを写真に撮りました。

彼の写真 - 列車と飛び去っていく景色、深い眠りをむさぼる姿など – は、時に感動的であり、時には見る人を戦慄させ、刺激的であり、臨場感にあふれています。

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ご紹介する作品は今年3月1日に、ツインパーム・パブリッシャーとTBWブックスから発売になる彼の初の写真集、[若き日の輝き(A Period of Juvenile Prosperity)]に掲載されます。
同じく3月、ニューヨークのヨッシ・ミロ・ギャラリーとロサンジェルスのM + Bで写真展が開催されることになっている他、書店でのサイン会も予定されています。
以下はマイク・ブロディーとの一問一答です。

ジェシー・ウェンダー : どうして写真を撮ろうと思うようになったのですか?そして一度やめてしまった理由は?そして、再開した訳も教えてください。

マイク・ブロディー : ある日僕はナショナル・ジオグラフィックの写真家、スティーヴ・マッカリーが撮影した肖像写真を目にしました。その時ひらめいたんです。ああ、ぼくも彼のようなポートレイト写真を撮影しなくちゃ。そこで僕は世界に出て、印象深い人々や場所の写真を撮り始めたのです。
やってるうちに鉄道列車の写真が多くなってきました。
私は知識を深めるため、列車のエンジンや電気系統について勉強し、一通りの知識を身に着けました。
この時に写真を撮るのを休んだのです。代わりに勉強に打ち込むことも悪くは無いと思ったのです。
学校に通い、ディーゼルエンジンについて学びました。将来の自分のために役立つかもしれないので、もっと専門的な知識を身に着けることになるかもしれません。
だって私は芸術家になろうとは一度も思ったことが無いのですから。
写真は私にとってはこれまでずっと、趣味でしかありませんでした。これからも多分そうだと思います。

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ウェンダー : 写真に写っているのはどんな人々ですか?

ブロディー : コーリー、ブレイク、シャノン、パトリック、ロケット、スープ、ルル、ブランディ、ヴェネッサ、サヴァンナ、ハリソン、アレクシス、オリバー、ロスト、トリニティー、あといろいろです。

ウェンダー : インスピレーションのもとになるものは何ですか?

ブロディー : こんなふうに言ったことがあります。伝統的なアメリカの価値観にパンクロック的要素を少し加えたもの。

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ウェンダー : あなたが撮影した写真の人物には親近感が漂っていますね。撮影する時に被写体の人になる人の心を解きほぐす、何か特別の方法があるのですか?

ブロディー : そうですね、まずはカメラを構えずに被写体になる人と親しくなることです。
実を言えば女性の中の3人はかつてのガールフレンドで、親友も2人います。
私は生活する中で写真を撮っているのです。

最近まで私は人々の生活と車の関わりをテーマに写真を撮っていました。
車は人々にとって重要なものであり、車にまつわる出来事はたくさんあります。
私はそれを撮影すればよいのです。

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http://www.newyorker.com/online/blogs/photobooth/2013/01/slide-show-pictures-from-mike-brodies-a-period-of-juvenile-prosperity.html#ixzz2K4PJlY1h





 

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