- 宮城県富谷カントリークラブのグリーンの惨状を目の当たりにして -
『森は生きている』という本があります。
一時期大変なブームになりましたが、残念ながら私はまだ読んでいません。
その本を読むべき年齢の頃、多分私はアガサ・クリスティやコナン・ドイル、あるいはマーク・トゥウェインに夢中になっていたからかもしれません。
ただ、『森は生きている』という言葉自体に非常に心惹かれたことを覚えています。
私が少年期を過ごした1960年代は、森や草花はまだ単なる『モノ』として扱われる傾向にあり、現代のように草木1本1本に命が宿っているというような考え方は一般的なものではありませんでした。
それが1970年代、ジョン・レノンのような人があらゆる分野に登場し、草花はもちろん、地球という私たちが暮らすこの星自体『生きている』『呼吸している』という考え方に人類はやっと到達したのです。
以来、意味もなく自然や生きている物を傷つけることは『罪悪』とされるようになり、やがて人間と自然が『共生する』という言葉も生まれました。
水俣病やイタイイタイ病など悲惨な公害病をリアルタイムで観てきた私としては、本当に良い時代になったと感じています。
皆さんは今、どんな『共生』をされていますか?
私はとりあえず、身の回りにある命を大切にしたいと考えています。
自分の子供たちが成人し独立した今は、庭に現れて食べ物をねだる野良猫を捕獲して動物病院に連れて行き、去勢避妊の手術をしてもらい家猫として可愛がっています。
同じく庭に現れる野鳥には餌の少ない時期、それぞれの好物を餌台に載せて飢えないようにしています。
猫の散歩とトイレ掃除を終えてやれやれと思っていると、今度はスズメたちが餌台の上に来て「何もないんですけど?」みたいに屋内にいる私に視線を投げて来ます。
「何だよ、今まさに一息つこうとしていたところなのに…」と苦々しく思ったりもしますが、クチバシの黄色い雛が親に餌をねだる様子を見てしまえば、これはもう腰を上げないわけにはいきません。
「はいはい、今やります…」
と、ホームセンターで買って来た小鳥用の餌を餌台にたっぷりと乗せます。
広くもない我が家の庭には、妻が植えたムラサキシキブの株があります。
秋になると長く伸びた枝に、鮮やかな紫色の小さな実をたくさんつけます。
これは冬に渡ってくるジョウビタキが食べるものに困らないよう植えているものです。
12月になると毎朝つがいのジョウビタキがやって来て、庭のムラサキシキブの実を無心に食べています。
近くには野鳥が好むウメモドキも赤い実をつけるのですが、ムラサキシキブの実以外は食べる様子がありません。
どうやら庭のムラサキシキブは、つがいのジョウビタキの生命線のようです。
ちょうど今、ムラサキシキブは枝をいっぱいに伸ばしていますが、困るのは『木の下闇』と言われる枝の陰に蚊が群れをなしていることです。
我が家の飼い猫は元は野良、とにかく外に出たがるのでリードをつけて自宅の敷地内を『散歩』させていますが、猫は犬と違い人間と一緒に道路をちゃんと歩いてなんかくれません。
物陰に潜り込んで匂いを嗅ぎまわり、日陰にゴロンとなって辺りの様子を伺うだけ…
庭でリードを持って脇に立っているだけの私は、場所によっては蚊に刺されまくりです。
一昨日は足だけで12箇所蚊に刺されました。
「ムラサキシキブの邪魔な枝、全部切り払ってしまおうか?!」
と思うのですが、冬食べ物がなくて途方に暮れるジョウビタキの姿が目に浮かび、そんなこともできません。
幸い昭和30年代40年代に幼少期を過ごした私は子供時代散々ヤブ蚊に刺されまくっていたので、今でも蚊に刺されても2-3時間すれば跡も残りません。
「かゆいだけなら、自分が我慢しようか…」
広大無辺の宇宙にあって、塵芥(ちりあくた)に等しい一人の人間の一生…
そんな塵芥のような私の人生の中に現れ出会うことができた無数の小さな命。
さすがに蚊なんかは瞬殺ですが、身の回りにある小さな命は生物界で最も力がある人間が守ってやるべきだろう、と思っています。
ちょっと話が変わります。
私の主要な趣味のひとつはゴルフです。
一部には「金持ちの道楽等々」の批判もあるようですが、私は金銭的に余裕があるからゴルフをしているわけではなく、常に自分の弱さ愚かさと対峙しつつ、それを克服することで喜びが得られるという独自のイディオムに惹かれているから、というのが大きな理由の一つです。
そのゴルフ場は実際にその場に立つと分かりますが、自然界の一部分を大きく切り取って専有スペースを確保する一方、自然と共生しなければ存続することはできない、という性格を持っています。
そのゴルフ場で『最重要』というべき場所が、グリーン。
最終目的地である直径12インチのホールにパターを使ってボールを転がし入れる場所です。
私はどうしてもこの芝が実に綺麗に貼られ、刈り揃えられたグリーンが生きているような気がしています。
ラウンド中は他のプレーヤーがボールを着地させて開けた穴 - ディポットを見ると
「かわいそうに…」とつぶやいてしまいます。
なので目に入った場合は必ず修復し、「ちゃんと治したからね - お返しにおいらが3パットしないよう見守ってね。」とひとりであらぬやり取りをしています。
グリーンの芝はゴルフ場全体の中でも入念に芝の手入れが行われ、その形状や芝の状態はゴルフ場そのものの性格を決定すると言っても過言ではありません。
マスターズの開催地であるアメリカ合衆国ジョージア州のオーガスタ・ゴルフクラブについて、「鏡のように早いグリーン」ということがまず最初に言われます。
毎年のマスターズのテレビ中継では、この18箇所あるグリーン上の戦いが中心に放映され、優勝選手はそのスピーチを必ず「まず最初にこのような素晴らしいグリーンとコースを整備してくださったゴルフ場スタッフの皆さんに心からの感謝を申し上げます。」というフレーズで始めることが通例のようになっています。
それだけゴルフ場にとっては『命脈』とも言えるグリーン。
しかし2023年の夏、異常な暑さのせいでゴルフ場のグリーンは大変なことになっています。
私が暮らす仙台市とその周辺でも異常な高温が続いた上、極端に少ない降雨量により『芝が焼け』てしまいました。
私も先日会員になっている宮城県富谷市(仙台市の北隣り)にある富谷カントリークラブをラウンドし、その惨状を目の当たりにしました。
芝が焼けるとは『枯れる』を通り越し、真っ黒になり、まるで溶けてしまったように『植物としての形状』を失ってしまう状態を言うようです。
そういえば我が家の庭のあちこちに半ば自生しているシソの葉も、あちこち黒くなっており、こんな状態は初めて見ました。
2023年の夏は全国各地で『観測史上最高』と言われる高温が観測され、それが何日も続き、その連続日数も『観測史上最高』という状態が続く異常事態です。
こうした状況を受け、様々な分野の方々が自分が大切にするものを異常な暑さから守るため奮闘しています。
特に動物や植物など、自然と密接に関わる『命』を守ろうとする取り組みは本当に大変だと思います。
でもどんな動植物よりも強い立場にいる人間は、守る取り組みを先頭に立って進めなければならないはずです。
先にゴルフ場は「自然を大きく切り取って」人間が作り、それを占有していると書きました。
切り取って占有した以上、そこにある命を大切にすることは人間にとっての責務です。
責務である以上、良心を持って懸命の取り組みをしなければなりません。
それを誠実に行い普段の夏と変わらぬコンディションを実現しているゴルフ場もあれば、「これが一流と言われるゴルフコースのグリーンなのか?!」と絶句するような状態になってしまっているところもあります。
普段からゴルフ場のグリーンは生き物だと考えている私は、現在の富谷カントリークラブなどのグリーンの惨状に心を痛めずにはいられません。
こうなってしまった原因について様々な『事情や背景』について釈明したいとお考えになる関係者がおられるかもしれません。
しかしこのグリーンの惨状は『危機的状況』に他なりません。
『危機』に遭遇してしまったら、当事者がするべきことは決まっています。
そしてそれは時間との戦いでもあります。
徒らに時間を空費する行為は無能を通り越しています。
どうぞ1日も早く、私が愛してやまないゴルフ場のグリーンの救済をお願いいたします。