【 ヒロシマ、その心の傷の大きさ、そして深さ 】《第1回》

核兵器使用による『心の傷』は、心の中だけに留まるものではない
何年も、何十年も、そして世紀を超えてもなお苦しまなければならない原爆の犠牲者
原爆、核兵器…それを持とう使おうとする意志や行為は、心を持った人間のすることではない

サラ・スティルマン / ニューヨーカー 2014年8月12日

広島14
69年前の8月6日、庄司富子さんという名の背の高いすらりとした女性が、まばゆいばかりの白い閃光に包まれ体ごと空中に放り上げられました。
閃光が襲った時、彼女はちょうど勤務先であるタバコ工場に到着し、秘書室のドアの前に立ったところでした。
白い閃光を発した物体にはリトルボーイというあだ名が付けられていましたが、その瞬間そんなことは彼女にとって全く無意味な事でした。

彼女は恐ろしい力で事務所の扉の後方に飛ばされ、気を失いました。
気がついた時、彼女の頭部には割れたガラス片が突き刺さり、周囲には人間の体が散乱していました。
そのうちのいくつかはすでに死体になっており、生き残った者も何が起きたのか解らないまま皆呆然としていました。
しかし彼女がもっと衝撃を受けなければならないものは別にあったのです。
間もなく彼女は近くの川の上に浮かぶ『炭のかたまりになったような』人間の死体をいくつも目の当たりにすることになったのです。

こうして19才の女性は好むと好まざるとに関わらず、それまで自分がいた世界から抜けださなければならなくなりました。
そして彼女はがれきの中から起き上がりました。
彼女は広島に投下された原爆の生存者になったのです。

広島07
それから70年近い歳月が経ちました。
富子さんの最年少の孫娘、ケニ・サバスの中に疑問がわき上がりました。
「原爆地投下後に起きた様々の出来事は、おばあちゃん、つまり祖母の精神的回復に影響しただけでなく、自分自身の文化的、歴史的認識の在り方に影響を与えたのではないだろうか?」

近年、世界的流行が現実に起きてもまだその実態の解明が最も遅れているものは、H1N1のような従来のインフルエンザ・ウィルスや各種の出血熱などではなく、もっと別のものだという仮説が注目を集めるようになりました。

この仮説は戦場における心的外傷が、本人や家族のありとあらゆる側面に影響を及ぼすというものです。
それが現実にいろいろなものを変えてしまう現象は何年にもわたり、あるいは数十年、さらには世紀を超えて続くことになるのです。

サバスが6歳の時に一家は広島を訪れたことがありましたが、その後家族を見舞った圧倒的な影響を見て、彼女自身が原爆と家族との関わりについて本格的に考え始めたのはハイスクール時代という早い時期でした。

私が現在はオハイオ州ヒリアードで彼女の叔母のもとで暮らしているおばあちゃん、すなわち富子さんを訪問できるように段取りをしてくれたのはサバスでした。
その場所で富子さんは原爆投下のその瞬間から、その後に家族を襲った様々な影響について詳細な証言をしてくれることに同意してくれたのでした。

* * *
ヒロシマ
ヒリアードを訪れる際、私はジョン・ハーシーの著作『ヒロシマ』を一冊持って行きました。
私が持っていたのは1989年版で、カバーにつけられた帯には『字を読める者すべてがこの本を読むべきである』と書かれていましたが、私もまったく同感でした。

この文章の完成版は広島に原爆が投下されたちょうど1年後、8月31日号の雑誌『ニューヨーカー』に掲載される形で世に出ました。
原爆に遭った6人のその後の運命を綴ったものです。
掲載からすでに60年以上が経った現在においても、ハーシーが記録した原爆投下後の惨状のむごたらしさは、核兵器が使用されることの恐ろしさについて時代を超えて訴えています。

そして若い秘書であった富子さんは、自分が崩れ落ちた無数の本に埋められていることに気がつきました。
そしてメソジスト派のひとりの牧師は生存者の救出にあたるため、危険を冒して広島市内に入ってきましたが、彼が目撃したのは眉が焦げて無くなってしまった女性、着ていた花柄の着物が燃えて皮膚に食い込んでしまっている女性などでした。

私が小道の突き当りにある富子さんが暮らす家に入っていくと、彼女は両手で私の手を包み込み、歓迎の意を表現するために冷たい額を私の額に押しつけました。

広島06
富子さんの長女のみのりさんが、家の中で吐くスリッパを出してくれました。
居合わせたうちの3人がキッチンに入っていくと、新鮮なベリー類とクッキーが用意されていました。
私たちはハーシーの『ヒロシマ』の主要な登場人物である谷本清牧師に関連する写真の分類の手を休めることにしました。
谷本牧師もまた富子さん同様、原爆投下の瞬間に広島市の中心部にいました。

富子さんは被爆後間もなく、広島市内の青空市場で説教を行っていた谷本牧師に初めて出会いました。
谷本牧師は富子さんに同師の教会について記した紙を渡し、間もなく彼女はクリスチャンに改宗したのです。
- 後に谷本牧師は富子さんの孫の功(いさお)氏にも洗礼を施しました。功氏はその日一日、私の通訳をつとめてくれました。
富子さんが日本語で語ってくれた最初の話は、谷本牧師に関するものでした。
「谷本牧師は私にこう言いました。『富子さん、世界中の人々に私たちの被爆体験について、ともに語り広めるべきだとは思いませんか?』」
谷本牧師自身はこの考えに基づき、戦後の人生を一変させることになりました。
原爆投下40周年を迎えた年、ハーシーは「ヒロシマ」の続編をニューヨーカー誌上に掲載しました。
この記事は平和を訴えるためにアメリカ全国行脚を行った谷本牧師の、その足跡について記述しています。
しかしこの時は富子さんはすべてについて語るだけの、心の準備はまだ出来ていませんでした。

広島17
そして今年の7月、広島に原爆を投下したB29戦略爆撃機『エノラ・ゲイ』の乗組員の生存者がジョージア州ストーンマウンテンで亡くなりましたが、彼は生前のインタビューに応え、多くの事を語り残していました。
これに対し88歳になった富子さんは、原爆投下された側からの証言を世界に向け公表する決心をしていたのです。

富子さんの心には燃え上がる何かがありました。
そして証言を記録する作業が始まったのです。

〈 第2回に続く 〉

http://www.newyorker.com/news/news-desk/hiroshima-inheritance-trauma
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本日から3~4回に分け、ニューヨーカーに掲載された『Hiroshima and the Inheritance of Trauma』の翻訳をご紹介します。
ニューヨーカーの場合は報道記事よりも文学的表現傾向が強く、翻訳が少々手間取っておりますが、解りやすい訳を心掛けたいと思います。

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【 エボラウイルスとの必死の闘い : リベリア 】《1》

アメリカNBCニュース 8月19日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

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ゲティー・イメージのベテランカメラマンであるジョン・ムーアは、リベリアの首都モンロヴィアで、エボラウイルスとの戦いの様子を記録しました。
世界保健機構は18日、リベリアと他のエボラ出血熱の患者が出ている国々に対し、国際空港、海港と主要な交通機関の利用者全てに対する検査を行うよう迫りました。

モンロヴィア市内にあったエボラ出血熱の患者を隔離する施設を略奪者が襲撃し、血の付いたシーツとマットレスを盗んで、市内のウェストポイント地区にある巨大なスラム街に持ち込んだ上、隔離収容されていた17人の罹患者が脱走するにおよび、リベリアにおける状況は一層悪化してしまいました。
リベリア政府はこれ以上の事態の悪化を避けるため、50,000人以上が暮らすとされるスラム街の徹底捜索を行っています。

空からスラム街の監視を行う係官。(写真上)

8月17日モンロヴィア市内で国境なき医師団によるエボラ管理センターの準備をする係員。
この施設は120のベッド数を設備する予定であり、エボラ出血熱専門施設としては史上最大の規模になります。(写真下・以下同じ)
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10歳の娘ジョセフィーンとともに横たわるハナー・シアファ。
彼女は国境なき医師団によるエボラ管理センターへの収容を希望しています。
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8月14日モンロヴィア市内の閉鎖された学校を利用して作られたエボラ隔離センターで横たわる男性。
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同じ施設内に立つ子供たち。
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モンロヴィア市内にあったエボラ出血熱の患者を隔離する施設に対する略奪が発生したことを理由に、患者に対し隔離施設から立ち退くように迫る施設付近の住民たち。
彼らはエボラ出血熱騒ぎはデマだと主張し、数百人が施設内に突入して37人の患者を連れ去り、追い払いました。
患者のほとんどは元いた場所に帰りましたが、リベリア保健省が20人の身柄を確保し、モンロヴィア市内の病院に隔離しましたが、残る17日は依然行方不明で捜索が続けられています。
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