星の金貨プロジェクト

星の金貨 東日本大震災や音楽、語学、ゴルフについて語るブログです。

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【 アフター・フクシマ : 悲劇から5年が過ぎて – 人びとの素顔 】《4》

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所要時間 約 5分

海で生きる人々の生計を、わずか数分で根こそぎ奪い去った3.11の巨大津波
ボランティアも加わっての震災後の清掃活動により、かつて以上にきれいな海が出現した

ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 2016年3月10日

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▽ 小石浜(大船渡市三陸町綾里小石浜)
5年前、佐々木淳氏は生計を立てるために海に戻るという考えをすべて捨てるという選択をする事も可能でした。
佐々木氏は3.11の巨大津波が小石浜に押し寄せる直前、海での仕事を終え港に向かって漁船を操縦していました。
小石浜を襲った津波が大切なホタテガイの養殖棚を次々と無惨に破壊していく様子を、佐々木さんと家族は絶望的な思いで見守る以外どうすることもできませんでした。

わずか数分で、佐々木氏は金額にして約5,000万円、1,000トンの養殖ホタテガイを失ってしまいました。
「押し寄せた津波が引き波となって去って行った時、私のホタテガイ全部が一緒にさらわれてしまったことを思い知らされました。」
この地で生まれ育った45歳の佐々木さんがこう語りました。

GRDフクシマ漁師
2011年3月に発生したこの東日本大震災により仕事を奪われた他の多くの人々と同様、佐々木さんも他の漁師たちも最悪の状態から抜け出すために、差し伸べられた慈善の手にすがる以外の途はありませんでした。

数日の内には400人ものボランティア・ダイバーたちが養殖を含めた小石浜の漁業を一日でも早く再開できるよう、昼夜交代で漁場のがれきの片づけに懸命に取り組む姿が見られるようになりました。
そして東日本大震災の後設立された非営利法人の絆プロジェクトが財政援助を行いました。
「私たちが前向きな取り組みを続けられるよう、優しく背中を押された思いがしました。」
 佐々木氏がこう語りました、
そして2014年には佐々木氏は、ほぼ震災前と同じ規模のホタテガイの生産を実現させたのです。
現在の小石浜湾内の水は、2011年3月11日よりもさらにきれいになった、佐々木さんがこうつけ加えました。

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松に覆われた崖が連なる小石浜では、特産品として有名なカキ、ホタテガイ、ホヤを全国的に売り込み、多くの観光客を呼び込もうとしています。
「この地域全体の傾向として漁師の高齢化が進んでいますので、地域経済立ちいかせるために私たちは別の産業基盤を整備する必要があるのです。」
佐々木さんは現在12名が加盟するホタテ養殖組合の組合長も務めています。
「私たちはこの場所を新鮮で美味しい魚貝類を食べたいという人々が集まってくる場所にしたいのです。」

災害後この地にやって来たボランティア・ダイバーたちに触発され、佐々木さんもダイバーの資格を取り、暇を見つけては漁場に残されたがれきの撤去を行う一方、生計手段についても改めて見直す機会を得たと語りました。
「3.11の津波を経験させられましたが、やはり私は海に入るのが好きなのです。」
「今再びこうやって自分が育てたホタテガイを見ることができるようになりました…言うまでもありませんが、私自身が育てたホタテガイこそ、私にとって世界最高のものなのです。」

〈 完 〉
http://www.theguardian.com/environment/2016/mar/10/the-faces-of-japans-tsunami-disaster-survivors-five-years-on
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【 3月26日の報道写真から 】

アメリカNBCニュース 3月26日

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3月26日東京の代々木公園で開催された【原発ゼロの日( No Nukes Day )】でプラカードを掲げる人々。(写真上)

3月26日付、印刷版として最後の号を発行した英国の日刊紙ザ・インディペンダント。同紙は今後オンライン専門紙として『発行』を続けます。(写真下・以下同じ)
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3月25日キューバの首都ハバナで開催されたローリングストーンズのコンサートを、自宅のテラスで楽しむ人々。
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【 アフター・フクシマ : 悲劇から5年が過ぎて – 人びとの素顔 】《3》

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所要時間 約 7分

津波で家を失った人々に、さらなる負担を強いる仮設住宅の劣悪な居住環境
息つく暇もなく医師と看護師が働きづめ……3.11被災地の病院の今

ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 2016年3月10日

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佐藤さんは今、仮設住宅内のコミュニティのリーダーとして自分の自分に価値を見出し、住民の自治会長とボランティアの消防士として時間を使い分けています。
そして津波の到達線上に桜を植樹していく『桜ライン311』( http://www.sakura-line311.org/ )プロジェクトにも参加しています。

佐藤さんが詰めている事務所は仮設住宅群を見下ろす丘の上にありますが、佐藤さんの最初の仕事は雨漏りのひどい屋根、そしてプライバシーが筒抜けになる仮設住宅への改善要望に向き合う事でした。

佐藤さんは時には調停者の役割を演じなければなりません。
「プライバシーというものがここにはありません。それが住民自身が抱える問題に上乗せされるのです。」
佐藤さんは昨年49歳の時、自宅を失い仮設住宅暮らしを強いられる中、軽度の脳卒中の発作を起こしましたが、仮設住宅での生活がいかにストレスの多いものであるか、厳しい口調で語りました。
「私たちはしばしば騒がしい隣人に対する不満を爆発させている人をなだめたり、ストレスの多さから多量のアルコールを飲んでしまった人を介抱しなければなりませんでした。」

3.11仮設住宅
若い人々の転出が続く中、そして被災地で高齢者の孤独死が増えている状況下、佐藤さんが最も懸念するのは仮設住宅で暮している高齢者の福祉問題です。

「私たちは、何か問題が発生した場合に迅速に対応出るよう、ひとり暮らしの高齢者の方にはドアをロックしないようにお願いしています。」

プレハブ造りの仮設住宅の居住環境は劣悪なものですが、佐藤さんは恒久的に住むことができる自宅を新築するだけの資金を貯めるまで、ここで暮らす覚悟は出来ていると語りました。
「私たちは今仮設住宅の端っこで暮らしていますが、隣の世帯が最近出て行ったので比較的プライバシーが保たれるようになりました。仮設で暮らす多くの人々が我慢を強いられているのに比べれば、私たちは幸運な方です。」

▽ 陸前高田市

医師の島貫正明氏の仕事上の入手必要リストの中身は、医師一般のそれと大差ないように見えます。新しい医療機器、より大きな治療施設、そしてより多くのスタッフなどです。

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しかし2011年3月11日の午後、73歳の医師が抱え込んだ問題は次元が違うほど大きなものでした。
三陸沿岸の陸前高田市にある岩手県立高田病院の内科医だった島貫氏は、地面が大きく揺れ始めた時、自分の診察室の中にいました。
科学的記録が行なわれるようになって以降、史上最大となった東日本大震災の地震が始まろうとしていました。
そして約30分後、この地震が引き起こした巨大な津波が陸前高田市に押し寄せました。
「私たちの最優先課題は、患者を危険な場所から移動させることの介助でした。」
高田病院はこの町唯一の総合病院ですが、震災後高台に移転再建されたプレハブの仮設病院で、島貫医師は休憩時間にこう語りました。

「私たちは患者さんたちを4階まで移動させました。しかしそれすら十分ではありませんでした。」
水位はなおも上がり続け、残された唯一の避難場所は病院の屋根の上でした。

51名の入院患者のうち、11名がその日の夕暮までに亡くなりました。そのほとんどは高齢者でした。
また、4人は氷点下にまで下がった屋外の寒さのために死亡しました。
そして9人の病院スタッフも亡くなりました。

GRDフクシマ島貫医師
今日、病院が開院して数分後には、島貫医師の診療室前の廊下には、マスクの着用を義務付けられた患者が何十人と並んで診察を待っています。
週5日勤務の高田病院の5人の医師と30人の看護婦は、平均して一人170人の患者の診察と治療にあたります。
訪れる患者の約4分の1はいまだに仮設住宅暮らしです。
この病院で働く医師も医療関係者も、ほとんど息つく暇もなく働きづめの毎日を過ごしています。
島貫医師が一人の患者の診療を終えると、また新たな患者が診察待ちの列に加わります。

しかしその混雑は徐々に整理され系統だったものとなり、岩手県立高田病院はかつての日常を取り戻しつつあります。
「津波直後の最悪の数日間ですら、私たちはあきらめるつもりはありませんでした。」
島貫医師はこう語りました。
「私たちは病院を続けるという選択肢以外をとることは許されない程、外部の方々から多くの支援を受けてきました。でも正直なところ、あとひとつだすぐに望みをかなえてもらえるなら、医師と看護師の増員をお願いしたいと思っています。」

《4》に続く
http://www.theguardian.com/environment/2016/mar/10/the-faces-of-japans-tsunami-disaster-survivors-five-years-on
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【 3月23日の報道写真から 】

アメリカNBCニュース 3月23日

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3月23日、高速道路の入り口を封鎖するコロラド州の警察官。この日大雪と強風がコロラド州の交通網を麻痺させ、学校も休校が相次ぎ、デンバー空港も閉鎖されました。(写真上)

インド、カシミール州の夏の州都であるスリナガルのキマメ湖、ボートの背後に沈む夕陽。(写真下・以下同じ)
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ロンドン自然史博物館で蝶の展示会の開催にあたり、話題作りのため開催されたイベントでフクロウ蝶とポーズをとる少年。
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http://www.nbcnews.com/slideshow/today-pictures-march-23-n544581

【 アフター・フクシマ : 悲劇から5年が過ぎて – 人びとの素顔 】《2》

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所要時間 約 9分

3.11の傷跡はあまりにも深く、その後の人生がまるで別のものになってしまった人も数多くいる
私たちがここで諦めてしまったら、被災地の悪い話がまたひとつ増えることになる

ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 2016年3月10日

GRDフクシマ01
▽ 大船渡

東日本大震災の被災写真の中、最も心痛むものの一つは、がれきの山と化した陸前高田市街地の中に埋まった酔仙酒造の折れ曲がった、今にも倒れそうな看板を写した一枚でしょう。

日本国内でも屈指の酒造会社のひとつと見られている酔仙酒造にとって、57人の従業員のうちの9人が津波によって命を奪われたことが明らかになったことは、悲劇が未だ始まったばかりであることを告げるものでした。
「震災発生の数日後、父が生き残った従業員に対し、努めて冷静に私たちは酒造りを続けなければならないと語っていたことを覚えています。」
酔仙酒造の社長金野泰彦氏の子息、金野泰明氏がこう語りました。
泰彦氏の言葉通り、酔仙酒造は岩手県内のライバルとも言うべき同業者、岩手銘醸株式会社の醸造施設で酒造りを再開しました。
被災地では数多くの企業が被災したかつてのライバル会社の再建のため援助を惜しみませんでしたが、岩手銘醸と酔仙酒造もその代表的な例となりました。

GRDフクシマ酔仙酒造
現在、政府の補助金と愛する酒の復活を願う愛飲者の寄付などにより、酔仙酒造は大船渡港を見下ろす丘の上に上質の酒造りを再開すべく、新たな醸造施設を立ち上げました。
そして2014年には酔仙酒造の初の海外向け新商品『希望』の米国市場への輸出が実現したのです。
「私たちは当初陸前高田市の会社でしたが、しかしその水質はもう酒造りには向かないものになってしまったのです。」
同社の村上ゆき部長がこう語りました。

酔仙酒造は70年以上前に8軒の造り酒屋が合併してできた会社です。
現在の従業員数は東日本大震災前と比較し少なくなり、生産量は震災前と比較し40%程度に留まっています。

しかし目下のところ金野泰明氏にとっては、米を使って伝統的な日本酒を作る能力はこれで十分です。
「5年前の3月、私たちは冬の間に仕込んだ酒の輸出販売を始めようとするまさにそのタイミングで、津波に襲われたのです。」
金野氏はその時の出来事についてこう語りました。
「私は震災の翌日に醸造所があった場所に戻ってきたのですが、いったい何が起きたのかすぐには理解できませんでした。」

GRDフクシマ酔仙蔵人
金野氏は20種類の商品の品質管理を行っていますが、酔仙酒造はその商品を愛飲してきた人々に対し、再建の義務を負っていると語ります。
「もし私たちが酒造りを断念してしまったら、この町にとっても、そしてその多くが住む場所を失ってしまった愛飲者の皆さんにとっても、悪い知らせが一つ増えることになります。」
「もし私たちが再建のための努力を放棄してしまったら、陸前高田の人々にあわせる顔が無いと思いました。」

金野氏は酔仙酒造が設備その他を一新したことにより、製品の味が微妙に変わってしまったかもしれないことを認めました。
「酒はただ作ればいいというものではありません。そこには信じられない程複雑な深みがあります。」

「私たちの再建はまだ緒に就いたばかりです。私たちが本当の意味で森を抜けるには、あと10年はかかるかもしれません。しかし5年前、私たちが追い込まれた程悪い状況というのはもう考えられません。」
「あの状況を乗り切った私たちは、これからどんな状況に遭遇しても、きっと乗り越えられると思います。」

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▽ 陸前高田

変だと思う人がいるかもしれませんが、佐藤一男さんは自分自身を幸運な人間の一人だと考えています。

彼は故郷の陸前高田市1,700人の命を奪った津波によって、自分の家を失いました。
しかし彼自身と妻、3人の子供たち、そして佐藤さんの両親も震災を生きのびることができました。

一方で元漁師である佐藤さんですが、再び海に出て漁をするには、心に受けた傷が大きすぎました。
今佐藤さんたち一家は、かつて避難場所とし使われた元中学校の敷地に建てられた仮設住宅で、全員が生活しています。

子供たちのいる他の世帯は担保となる要件を何とか確保し、ローンを組んで自宅を再建し、仮設住宅を出ていきました。
佐藤さんたち、そしておよそ100人ほどの平均年齢が60歳を越える人々が仮設住宅に残されました。
中には90代後半の人びともいます。

GRDフクシマ陸前高田佐藤氏
78歳になる佐藤さんの父親の吉朗さんは、いつでも海に出てシラス漁を再開できるよう、漁網の修理に余念がありません。

東日本大震災発生以前は、吉朗さんと息子は、一緒に釣りに行くことがありました。
しかし一男さんは、この春、釣りに行く父親に同行しようとはしませんでした。

「私は、災害以前は漁師でした。」
50歳の佐藤さんはこう語りました。
「津波に襲われた後も、私は漁師を続けようと努力しました。しかし私はフラッシュバックに襲われ続け、心理面で影響されるのを避けることができませんでした。私はあの時、丘の上から津波がやってくる様子を見ていました。必死に逃げようとする人々、そして悲鳴…でも私はどうすることもできませんでした。」

《3》に続く
http://www.theguardian.com/environment/2016/mar/10/the-faces-of-japans-tsunami-disaster-survivors-five-years-on
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【 シリアの子どもたち 】《2》

アメリカNBCニュース 3月16日

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シリア内戦では250,000人以上が死亡、約2,300万の内戦前の人口のうち約半数の国民がそれまでの自宅を追われて流民化するなどしています。
そして国外に逃れ出た480万人のシリア人の約半数は子供たちです。

AP通信のカメラマン・マホメット・ムヘイセンは、ヨルダン国内のマフラクにあるシリア難民キャンプに数日間滞在し、ここに掲載されている子供たちの肖像写真を撮影しました。
現在最年少でも6歳になった子供たちは、故国シリアの記憶については曖昧になっていますが、それでも皆一様に故郷を恋しがります。
そして破壊されてしまった学校の事も。

3月中旬、国連の子どもたちのための機関は、難民化している70万人を含め、シリアでは300万人の子供たちが学校に通えなくなっていると報告しました。
ハサカから避難してきた7歳のマヤダ。・ハミド。
「シリアのことはもう何も覚えていません。」(写真上)

ハマから逃れて来た6歳のアヤ・バンダル。(写真下・以下同じ)
子ども08
ハサカから避難してきた5歳のモナ・エマド。
「私はシリアに帰りたいのですが、お父さんはアメリカに移住したいと言っています。」
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ハサカから避難してきた3歳のハマド・ハディル。
子ども10
ダマスカス東郊から逃れて来た11歳のヤスミーン・ムハンマド。
「私が願う事のすべては、シリアの私が通っていた学校に戻って、友達と会うことです。」
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ホムスから避難してきた12歳のマリアム・アローシュ。
「自分の家のことも通っていた学校のことも覚えています。帰りたいです。」
子ども12
ハマから逃れて来た13歳のムハンマド・バンダル。
「僕は人を助けることができるいしゃ医師になりたいです。」
子ども13
http://www.nbcnews.com/slideshow/portraits-capture-piercing-gaze-syrian-refugee-children-n540531

【 アフター・フクシマ : 悲劇から5年が過ぎて – 人びとの素顔 】《1》

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所要時間 約 7分

生活と希望の復活に向けた人々の歩みは、本当にゆっくりとしか進まない
今日の生活は、2011年3月当時の地獄と比べれば天国…
東京電力は自分たちが負うべき責任すべてを引き受けようとする姿勢を、一切見せていない

ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 2016年3月10日

GRDフクシマ01
2011年3月11日に襲った巨大地震と巨大津波は福島第一原発の重要設備である原子炉冷却システムを破壊し、3基の原子炉でメルトダウンを誘発させました。
160,000に上る住民が放射線障害を避けるため福島から避難した一方、津波の直接被害により約19,000人が死亡しました。
そして災害発生から5年という歳月が過ぎた今も、放射線の問題から故郷に戻れずにいる100,000人を含め、174,000人以上の生存者が恒久的な住まいで暮すことができずにいます。

しかし一方では、一部ではありますが生活が徐々に普段通りの形を取り戻しつつある徴候が見てとれます。
地震と津波に襲われた東北地方は第二次世界大戦(太平洋戦争)以来最悪とも言う壁被害を受けましたが、こうした場所で周囲の人々の立ち直りを支えるため勇気と決断に満ちた行動をとった6人の人々に、ガーディアンはインタビューを試みました。
放射性物質が直接降りそそぐ中避難することを拒んだ地方自治体の長、悪夢のような体験を強いられた後地元で高齢者の世話に明け暮れる漁師、そしてわずか数分間の出来事により生活がまるで違うものになってしまった市井の人々…。

南相馬

GRDフクシマ桜井市長
近頃は桜井勝延市長が窓から外を眺めることがめっきり少なくなったことは、別に驚くべきことではなくなりました。
ちょうど5年前、桜井市長は巨大津波が南相馬市内の農地や住宅を破壊して回る直前、海岸線に広がっていた松並木を次々なぎ倒していく様を同じ窓から見つめていました。
地震と津波が市民500人以上の命を奪った時、桜井市は市長に就任して未だ数か月しか経っていませんでした。

しかし津波で大勢の市民の命が失われたことは、今も続く南相馬の激しい苦痛の始まりを告げるものでした。
南方25kmにある福島第一原子力発電所始まったメルトダウンは、人口90,000人の市民の内71,000人に市外への避難を決意させることになりました。
南相馬市は重要な行政機能やマーケット機能を喪失したゴーストタウンになってしまったのです。

南相馬が災害に襲われた当初、桜井市長にはなす術はありませんでした。
そして2011年3月24日、彼は明らかに憔悴しきった様子でユーチューブ(YouTube)の画面上に現れ、世界に向け救援を訴えました。英語の字幕付きのこの映像は世界中で繰り返し再生されることになりました。

5年後の今、南相馬市の人口は約57,000まで回復しました。
さらに現在、福島第一原発に最も近いため避難したまま誰も住んでいない場所に住民が戻るための準備が進められています。

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しかし相馬市の都市機能は正常からは程遠い状態です。

桜井市長は今や南相馬市内の放射線量はイタリアのローマを下回るまで低下したことを指摘しますが、多くの母親とその子供たちは避難を続けており、市内の幼稚園の半分は空になったままです。

昨年選挙が行なわれた市町村では、復興事業の手際の悪さを指摘された首長が相次いで退任に追い込まれましたが、桜井市長は再選されました。

「誰もいなくなった後も、私はこの場に留まり続けました。」
桜井市長は自分の家系が代々武士同精神を受け継いできたことに言及し、その事が彼を現場に留まる決意をさせたのだと語りました
「市民はその点を評価したのだと思います。」

しかし課題は山積しています。
市内全体の除染を完了させるには45,000億円の費用が必要だと見られていますが、現在は対象の約半分の23,000世帯の除染が完了しました。
「日本がこれほどの規模の除染を行うほど豊かな国であるのは幸いです。」
桜井市長はいたずらっぽくこう語りました。

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しかし話題が福島第一原発を運営する東京電力に及ぶと、彼のユーモアセンスは消え失せました。
「東京電力に対する私の姿勢は変わっていません。」
「そして東京電力が事故処理と向き合う姿勢にも変化は見られませんでした。東京電力は自分たちが負うべき責任すべてを引き受けようとする態度を、一切見せていません。」

かつてマラソンランナーだった桜井氏は市長としての務めを果たす長い道のりの中、絶望の縁から抜け出るための復興事業というものが、ゆっくりとしか進まないことを痛感してきました。
「私たちはまだまだこれから長い道のりをこなさなければなりません。」
桜井市長が語りました。
「しかし今日の生活は、2011年3月当時の地獄と比べれば天国です。」

《2》に続く
http://www.theguardian.com/environment/2016/mar/10/the-faces-of-japans-tsunami-disaster-survivors-five-years-on
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【 ブリュッセル市内の空港と地下鉄駅で自爆テロ 】

アメリカNBCニュース 3月22日

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3月22日にブリュッセルでのスハールベーク地区で、自爆テロの爆弾製造が行なわれた疑いがあアパートを側索するベルギーの捜査官。現場からは爆弾を製造した際に使われたとみられる化学薬品、釘、ボルトなどが発見されました。(写真上)

爆発の後、現場付近を封鎖するベルギーの警察。(写真下・以下同じ)
ベルギー02
爆破されたブリュッセル、ザベンテムにあるブリュッセル国際空港。
ベルギー03
空港内の負傷した女性。
ベルギー04
負傷し、空港内に横たわる男性。
ベルギー05
ブリュッセル市内の地下鉄アールロワ駅とメルベーク駅の間で、停止した車両を降り歩いて避難する人々。
ベルギー06
http://www.nbcnews.com/slideshow/airport-subway-blasts-kill-dozens-brussels-n543456

【 日本の首相、3.11発生5周年前日、原発を決して捨てないと発言 】

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所要時間 約 8分

福島第一原発の事故を引き起こした東京電力に対する国民の怒り、規制当局への不信は未だ根強い
日本では制度的とも言うべき政治家、官僚、原子力産業界の癒着は、解消されないまま

ドイツ国際放送 3月10日

安倍首相DW2016
安倍晋三首相は東日本大震災から5周年を迎える前日に記者会見を行い、日本にとって「原子力は不可欠である」と語りました。
同時に安倍首相は福島第一原発の事故で放射性物質に汚染された地域の除染作業について、一層のテコ入れを行うと語りました。

そして2020年のオリンピックまでに、巨大津波と福島第一原発の事故によって大きな被害を受けた東北地方の復興事業の加速に努力すると語りました。

しかし裁判所が福井県の高浜原子力発電所の2基の原子炉の運転停止を命じる前例のない仮処分の決定を行ったことに関しては、天然資源が不足する日本のエネルギー事情に照らし、原子力発電所は日本にとって不可欠であるとの考えを改めて強調しました。
「資源に乏しいわが国が、経済性や気候変動の問題に配慮しつつ、エネルギー供給の安定性を確保するためには、原子力は欠かすことはできません。」
安倍首相は記者会見の席上でこう述べました。

しかし3月11日に襲ったマグニチュード9.0の巨大地震が引き起こした巨大津波が、福島第一原発を襲い、3基の原子炉がメルトダウンを引き起こした事故に対する怒り、規制当局に対する不信感は未だに国民の間に根強く残っています。

人類の敵
東北地方太平洋岸を襲った巨大津波は約18,500人を死亡あるいは行方不明に追いやり、チェルノブイリ原発事故以降最悪の原子力災害を引き起こしました。
事故により福島第一原発が環境中に放出した放射性物質は周辺一帯を汚染し、場所によっては数世代にわたり居住不可能な場所になってしまいました。

今日本国内では政府などが新たな安全基準の下で原子力発電所の安全は確保されているとの広報活動を行っていますが、日本においては制度的とも言うべき政治家、官僚、そして原子力産業界の癒着は、一般市民の間に原子力発電に関わる改革は未解決との思いと広範囲にわたる疑念を抱かせる原因となっています。
「日本の官僚機構と産業界との結びつきは未だに非常に強いままです。これは日本が第二次世界大戦(太平洋戦争)後、官僚機構の強力な主導の下に、経済復興を進めていった負の遺産なのです。
千葉大学で政治学を専攻する新藤宗幸名誉教授はAFP通信社の取材にこう答えました。

安倍首相は今後5年間で復興事業を一層加速させると約束しました。

汚染水タンクDW
しかし3月10日木曜日、日本の右翼を代表しする政治家であり、産業界の利益の守り手である阿部首相は、これまで負けを一挙に取り返そうとでもするように、2020年のオリンピックまでに被災地での復興事業を最大限加速すると宣言しました。
「今後5年間を「復興・創生期間」と位置づけ、十分な財源を確保し、被災地の自立につながる支援を行っていく考えであります。」
安倍首相はこう語りました。

さらに安倍首相は、観光客が「彼ら自身の目を通して」地域の再建を確認することができるように、そして
「2020年には外国人観光客の数を3倍の150万人に押し上げることを目指す。今年を、まさに、「東北観光復興元年」にする考えであります。」

3月11日には天皇陛下ご夫妻を迎え、安倍首相や他の政府高官が参加して東日本大震災発生5周年の国の追悼式典が開催されます。

国会事故調査委員会が調査を行なった結果、事故の責任は東京電力が負うべきであると結論しました。
そして現在、当時の東京電力の役員3人が刑事裁判に直面させられています。
「福島第一原発の事故は人間が作り出したものである。」
国会事故調査委員会の報告書の中の有名な一文です。

東京電力3役員
被災地においてはすでに、明らかな変化が見られる場所もあります。
被災地の沿岸にはこれまで以上の高さの堤防や防潮堤が築かれ、事故を免れた原子力発電所のための防潮堤の建設も進んでいます。
沿岸市町村の中の、津波に襲われた地区の高台移転も進んでいます。

世界の地震学者は世界の巨大地震の20%が集中し、毎年大きな地震が発生する日本の国土にあっては、地震多発期の見極めが大切だと指摘しています。
日本は相次ぐ火山の爆発等、地震の多発期に入ったと考えられる兆候が見られるようになっています。

http://www.dw.com/en/japanese-premier-defends-nuclear-powers-necessity-on-eve-of-fukushima-anniversary/a-19106430
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【 シリアの子どもたち 】《1》

アメリカNBCニュース 3月16日

子ども01
シリア内戦では250,000人以上が死亡、約2,300万の内戦前の人口のうち約半数の国民がそれまでの自宅を追われて流民化するなどしています。
そして国外に逃れ出た480万人のシリア人の約半数は子供たちです。

AP通信のカメラマン・マホメット・ムヘイセンは、ヨルダン国内のマフラクにあるシリア難民キャンプに数日間滞在し、ここに掲載されている子供たちの肖像写真を撮影しました。
現在最年少でも6歳になった子供たちは、故国シリアの記憶については曖昧になっていますが、それでも皆一様に故郷を恋しがります。
そして破壊されてしまった学校の事も。

3月中旬、国連の子どもたちのための機関は、難民化している70万人を含め、シリアでは300万人の子供たちが学校に通えなくなっていると報告しました。
3月11日、ダイル・アッザウルから避難してきた6歳のアフマド・ズガーヤルはこう話してくれました。
「僕は家が爆破された瞬間の轟音をはっきりと覚えています。」(写真上)

ハマから逃れて来た10歳のザーラ・ヤシム。(写真下・以下同じ)
「私はシリアに戻って友だちのラガド、ハリマ、ナージャとまた一緒に遊べる日が来ることをいつも夢見ています。」
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ダイル・アッザウルから避難してきた5歳のザーラ・マフムード。
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ハマから逃れて来た11歳のラカン・ラスラン。
「ハマで暮らしていた時はちゃんと学校に通っていました。友達もいました。でも僕も友だちもみんな家を破壊されてしました。」
ラカンは教育が受けられなくなってしまい、将来が不安だと語りました。
「僕の最高の夢はドライバーになることです。」
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ダイル・アッザウルから避難してきた9歳のアムナ・ズガーヤル。
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ハサカから避難してきた6歳のヒバ・スード。
「私の夢は学校の先生になる事です。」
子ども06
http://www.nbcnews.com/slideshow/portraits-capture-piercing-gaze-syrian-refugee-children-n540531

このサイトについて
ほんとうの「今」を知りたくて、アメリカCNN、NBC、ABC、CBS、英国BBC、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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