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【「私は戦争中の日本人を決して許さない!」泰緬鉄道から長崎まで:地獄を歩かされた英国人70年目の告発】《4》GRD

読了までの目安時間:約 9分

ナガサキ…散乱する遺体、どれが人間の体でどれが違うのか、何もかも真っ黒で見分けがつかなくなっていた
捕虜収容所で日本兵に口にホースを突っ込まれ、胃が破裂するまで水を注ぎこまれ、死んでしまった父親
私は日本人が戦争中に行った行為を許すことはできない…戦争中の日本人はケダモノだった

ジ・オブザーバー / ザ・ガーディアン 7月26日

from Bruma
ブラス氏がいた捕虜収容所が解放されたのは1945年9月でした。
ブラス氏は地上にいる彼らに向けてビスケットやチーズを投下して行った、頭上のアメリカ軍機を鮮やかに記憶しています。

解放された連合軍の捕虜たちは、ほんの2、3週間前に原子爆弾を投下されたばかりの長崎に搬送されて行きました。
日本に投下された原子爆弾は1発目が広島、2発目が長崎で、戦争を早く終わらせるのに効果があったと考えられていました。

鉄道の駅のそばでトラックに乗せられたまま時間調整をしていた時、荷台に乗っていたブラス氏は付近を警備していたかつての捕虜収容所の日本兵と目が合いました。
この日本兵だけは一度も捕虜に暴力を振るったことがありませんでした。
警備員は、ブラに敬礼しました。
しかしブラス氏は目をそらし、敬礼を返すことを拒否しました。
「これまでずっと、私はその時の私の態度を後悔してきました。」
と、ブラス氏は言います。
「今でもその時のことを思い出し、考え込むことがあります。」

長崎01
ブラス氏が見た長崎は荒廃の極に達していました。
3km四方、見渡す限りの廃墟でした。
「目に入るものと言えば、焼け焦げた丘の連なりでした。真っ黒焦げです。その至る所に縦に亀裂が入っていました。
家々は完全に破壊され、がれきと石ころになっていました。
「あちこちに日本人がさ迷い歩いていて、アメリカ軍兵士に食料をくれるよう求めていましたが、アメリカ兵たちはそれを嫌がっていた様子でした。」
「私はある日本人男性の話を耳にしました。かれは誕生日に息子に自転車を買ってやったばかりでした。しかし原爆を投下された後、見つかったのは焼けこげた自転車だけでした。息子の姿は、影も形もありませんでした。」
「その自転車もねじまがった金属の塊に変わり果てていました。遺体も散乱していましたが、どれが人間の体で、どれがそうではないのか、見分けがつかなくなっていました。」
「何もかもが真っ黒に焦げていました、真っ黒ながれきにしか見えませんでした。」

長崎06
これ程の虐殺であったにも関わらず、ブラス氏は日本人に対する憐憫の情はわかなかったと告白しました。
彼が感じていたのは戦争を終わらせてくれた、アメリカに対する祝福の気持ちでした。
日本軍の捕虜になっていた中には、解放後に元いた場所に戻り原爆の犠牲者に対する哀悼の意を表した人もいましたが、ブラス氏はそうではありませんでした。
ブラス氏は原爆で黒焦げになって殺された、自転車に乗った男の子の事を気の毒に思っています。
「その特定の出来事のみ、私は気の毒に思っています。」

「けれども、私は日本人が戦争中に行った行為を許すことはできません。」
「戦争中の日本人はケダモノでした。」

収容所を出された後、ブラス氏が見聞きしたものは長崎の焼け焦げた自転車とかわいそうな男の子の話だけではありませんでした。
ブラス氏が決して許すことのできない日本軍の行為、彼の父もまたその犠牲になっていました。
それはブラス氏にとって大きな衝撃でした。

泰緬鉄道05
日本兵はブラス氏の父親の口にチューブを押し込み、際限もなく水を注ぎ込んだのです。
胃が破裂した父親はその事が原因で死亡しました。

意外な喜びもありました。
ブラス氏の4人の姉妹、そして兄弟全員が戦争を乗り切り、生き残ることが出来ました。
戦後、ブラス氏は母親とともにアムステルダムに移り住み、医学の勉強を再開しました。
しばらくの間、ブラス氏は兄弟とともにジャマイカのキングストンで働きましたが、そこで彼は後に妻となるスコットランド人の女性医師と出会いました。
1958年に彼らはウェールズのレクサムに住みつき、そこでブラス氏は開業医として30年間働きました。

「失われてしまった年月について振り返るとき、あなたは怒りを感じますか?」
こう私が訪ねると、彼は首を振りました。
なぜ?

「めぐりあわせとは不可思議なものです。」

香港・英軍捕虜
「これまで生きてきて、良いことも悪いこともありました。悪いことが起きたからと言って、そのいちいちに腹を立てる必要がありますか?私は人生が何であるかを理解した訳ではありません。ましてこの世に起きたことのすべてを理解できるはずがないのです。」
私を見つめるブラス氏の顔には、その人柄をしのばせる微笑みが広がっていました。

1945年9月、捕虜仲間がブラス氏の肖像を描いた鉛筆のデッサン画が残っています。
デッサンの中のブラス氏は整った顔立ちで、3年間の強制労働を伴った幽閉生活にもかかわらず、その視線の先には希望が見えているようです。

現在、ブラス氏の顔にはしわが刻まれ、その体には骨が浮き出していますが、全体的な力強さは奇跡的と言って良いかもしれません。
背中もまっすぐに伸び、その目は今なお人々の中に前向きなものを見出そうとしているようです。

もちろん彼の中には触れれば激痛が走る心の傷が隠されています。
しかしそれは心の奥深く隠されると同時に、そこには決して折れることの無い鉄の意思が同居しています。

Jean Brass
彼はこれからも許すことはありません。

敬礼を返すこともしないでしょう。

そして叩かれても蹴られても、倒れることはありません。

ジャン・ブラス氏92歳。
彼は杖なしで歩きビスケットをかじりながら、毎日毎日心の中で戦っているのです。

〈 完 〉
http://www.theguardian.com/world/2015/jul/26/nagasaki-man-who-walked-through-hell-jan-bras
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【 ヒロシマ:70回目の追悼 】

アメリカNBCニュース 8月6日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

広島21
ヒロシマへの原爆投下時刻は1945年8月6日の午前8時15分でしたが、廃墟の中からその時刻で止まった時計が見つかりました。文字盤の「8」の時の上には小さな手の形の影が見えますが、これは爆発によって焼きつけられたものです。(写真上)

1945年8月6日、原爆投下直後の広島。爆炎は6,000メートルの高さに達しました。
それから数日して、第二次世界大戦(太平洋戦争)は終了しました。(写真下・以下同じ)
広島22
8月5日夜、広島で原子爆弾の投下の犠牲者を追悼するための式典前日、提灯を捧げ持ち原爆ドーム前の橋を渡る人々。
広島23
8月5日夜、原爆の犠牲者を悼むため、持参した提灯に火をともす女性。
広島24
8月6日、70回目の広島原爆犠牲者追悼式典で、花を捧げる人々。
原爆はその場で70,000人の市民を殺戮、その後の年月でさらなる人々が放射線障害により亡くなりました。
広島25
8月6日、広島平和祈念公園での祈りの後、涙を拭う女性。
広島26
8月6日、広島平和祈念公園で犠牲者に祈りを捧げる女性。
広島27
http://www.nbcnews.com/news/photo/today-pictures-august-9-n406801

【「私は戦争中の日本人を決して許さない!」泰緬鉄道から長崎まで:地獄を歩かされた英国人70年目の告発】《3》GRD

読了までの目安時間:約 8分

忘れてしまいたいのに忘れられない、福岡の炭鉱での残酷無比の強制労働…3人に1人が死んでいった
洗濯を命じられた強制労働現場の落盤事故で死んだ親友の作業服には、脳の組織の一部がこびりついていた
何かあればすぐに暴力…日本人は私たちを殴りつけるための棒を、常にその手に握っていた

ジ・オブザーバー / ザ・ガーディアン 2015年7月26日

from Bruma
次に彼が連行された先は日本の本土でした。
日本の南にある九州・福岡にあった捕虜収容所に入れられたブラス氏は、近くにある炭鉱で強制労働を強いられました。
それは『極めて危険な』仕事でした。
真っ暗な中で煤だらけになり、耐えず死の危険と向かい合っていなければなりませんでした。

この間、ブラス氏は青空を見ない生活を続けました。
捕虜収容所の中にはノミがいっぱいいて、夜もろくに眠ることが出来ませんでした。

ここでも捕虜は3人に1人の割合で死にました。
ブラス氏の親友も死にました。
彼は地下の湖がある区域でドリルを使って掘り進む仕事をさせられていましたが、その真上に屋根が崩落して命を落としました。

「私は彼の服を洗濯させられました。」
ブラス氏が語りました。
「その服にはかれの脳の一部がこびりついていました。」

ここまで語ったブラス氏が私の方を見ましたが、その口元には疲労の色がありありと見てとれました。
彼は沈黙しました。
痛々しい表情がその顔に浮かんでいます。
その事を口にすべきかどうか、心の中で葛藤が起きているようでした。

捕虜収容所03
追い込まれた状況の中、生きのびるためにブラス氏が選んだ方法は、
「最低限の事だけをする事でした。しかしサボタージュなどは論外でした。こんなことはもう忘れてしまいたいのですが、鉱山での労働はそれはひどいものでした。話にならない程の重労働でした。そして日本人は私たちを殴りつけるための棒を、常にその手に握っていました。」

しばらくするとブラス氏はひどい黄疸にかかり、医務室に転属になりましたが、そこではすでに医師の見習いの兄が働いていました。

彼は病院の用務員になり、鉱山を脱出する機会を窺っていましたが、収容所での生活は過酷で厳しく、脱出する機会は巡って来ませんでした。

「何か問題が起きると、日本人は私たちを一人ずつ別の人間と向かい合うようにして一列に並ばせ、互いに殴り合うよう命令しました。殴り方が弱いと日本人がその男を棒で殴りつけ、もっと強く殴るよう命令しました。」
こう話すブラス氏の目は曇りがちになり、疲労の色が濃くなっていました。
「仲間同士で、殴り合うよう強制されたのです。」

しかし捕虜たちが恐れていたのはこうした日常の散発的な暴力ではなく、日本軍という組織が行なう、もっと残酷な暴力でした。
「それは組織化された最終的な打撃であり、その人の命はそこで終わるという事を誰もが認識していました。
しかし具体的にどうなのかは誰も知る者は無く、そのため恐怖は層倍のものとなりました。」

捕虜収容所04
捕虜たちは警備の日本兵の前を行きすぎる際、お辞儀をして「こんにちは」とあいさつすることを義務付けられていました。
急いでバケツ2杯の水をサナトリウムに運ばなければならなかった時、ブラス氏はこの『きまり』を忘れてしまい、残忍な目に遭わされました。
「この警備兵は、全身があざだらけになるまで私を殴り続けました。」
この話をブラス氏は淡々とした調子で語り、苦痛の表情を浮かべたり、不正義に怒りを露わにしたりはしませんでした。
彼はすぐにこの時、唯一の救いだったという事実に、話題を転じました。
「ただこの警備兵は私の睾丸を蹴ろうとだけはしませんでした…やろうと思えばいつでもできたのですが。馬鹿な話だとお思いになるでしょうが、私はそこに彼の人間性を垣間見たような気がしたのです。彼は私を徹底的に殴りましたが、睾丸とみぞおちだけは蹴ったり殴ったりしようとはしませんでした。」

リポーターである私は、ブラス氏にこう言いました。
絶望的としか言いようのない環境の中で、さらには自分に対してひどい暴力を加えている相手の中に何がしかの光明を見出していたブラス氏という人間に、多くの人は驚くしかないだろうと。
「その頃私は神の存在を信じていました。非常に信心深い人間でした。多分その事が心の支えになっていたのだと思います。」

捕虜収容所01
しかし彼は青年になったばかりの自分が、なぜこんなむごい目に遭わされているのだと考えなかったのでしょうか?
他の誰でもなく、なぜ自分なのかと?

「その当時は神の存在を疑うなどという事は考えもしませんでした。」
質問に対するブラス氏の答えはこうでした。
「しかし今は違います。私の考えは完全に変わりました。」

現在、ブラス氏は自分自身を無神論者と考えています。

しかし日本軍の捕虜になっていた当時は、信仰は生き続けるための唯一の支えでした。
仲間の囚人たちの多くが絶望のあまり生きる気力を失っていったのとは異なり、ブラス氏は決して死にたくなかったと語りました。

《4》に続く
http://www.theguardian.com/world/2015/jul/26/nagasaki-man-who-walked-through-hell-jan-bras
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【 今日の報道写真から : 8月6日 】

アメリカNBCニュース 8月6日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

DAY01
南部ガザ地区のラファで昨年夏に侵攻してきたイスラエル軍が遺棄して行った弾薬の爆発により負傷、ナジャルの病院で治療を受けた少年。
病院関係者によれば、4日少年の家族4人がこの爆発で死亡、他に13人が負傷しました。(写真上)

8月6日にスイス、アルプス山脈のフルカ峠の近く、融解を食い止めるためカンバス地の覆いをかけられたローヌ川の氷河。(写真下・以下同じ)
DAY02
カリフォルニア州クリアレイク、山林火災によって燃え尽きてしまった家屋と自家用車。
4日州の担当官は、山林火災は鎮火に向かいつつあるが、避難している人々が自宅に戻れるようになるまでは尚数日を要する見込みであると語りました。
day04
スペイン北部のアルゲへダスの通りを駆け抜ける雄牛のレースを観戦する少年。
このレースは守護聖人聖エステバーンに捧げられる伝統行事です。
DAY05
ミャンマーのイラワジ地区を豪雨が襲い、洪水が発生したためボートを使って移動する村民。
Day06
広島に原爆が投下されて70年目の日、市内の川に灯ろうを流し祈りを捧げる男性。
この日世界中から数千人が参加して開催された記念式典は、平和憲法から離れ、軍事力の増強に向かおうとする日本の姿勢を浮かび上がらせる場となりました。
Day07
http://www.nbcnews.com/news/photo/today-pictures-august-6-n405561

【「私は戦争中の日本人を決して許さない!」泰緬鉄道から長崎まで:地獄を歩かされた英国人70年目の告発 】《2》GRD

読了までの目安時間:約 9分

悪名高い『地獄行の船』に乗せられ、連れて行かれたのは『枕木1本に死者1人』の強制労働の現場
日本本土の強制労働の現場に比べれば、まだしも泰緬鉄道の建設現場の方がましだった
日本軍兵士による終ることの無い虐待、しかし最悪の日々は日本本土に連行されてから始まった

ジ・オブザーバー / ザ・ガーディアン 2015年7月26日

from Bruma
ジャン・ブラス氏は植民地で農園を経営するオランダ人の父のもとに生まれました。
オランダ領インドネシアで8人兄弟の末っ子として生まれましたが、このうち2人の兄は夭逝していました。

幼い時の最も初期の記憶のひとつは、仕事に行く父親について行ってジャングルの中でトラと遭遇した事でした。
その時はそんなに怖くなかった、トラが人間を襲う事はそう多くない、そう考えていた事を彼は思い出しました。
「私たちが恐れていたのはクマの方でした。クマは木のぼりが得意であり、頭上から突然人間を襲う事があったからです。」

太平洋戦争が勃発する3か月前、ブラス氏は兄と一緒にオランダ陸軍に入隊しました。
1941年12月の真珠湾攻撃の後、日本はオランダ領東インド諸島を含む東南アジア地域を占領するため、軍事侵攻して来る可能性があったのです。

そして1942年前半になると、ブラス家の家族全員が日本軍の捕虜になっていました。
ブラス氏と兄のゲリットは、当時すでに悪名高い存在になっていた『地獄行の船』に乗せられ、数千人の捕虜のひとりとしてタイへ運搬されて行きました。
載せられた運搬船は重撃を受け、船室にいたブラス氏は爆弾が周囲の海中で爆発する不気味な音を聞き続けていました。
友軍にいつ殺されても不思議のない、危険な航海でした。

泰緬鉄道08
「とても恐ろしい思いをしました。」
ブラス氏が当時の状況を思い出しながら、こう語りました。
「私たちはネズミのように溺れながら殺されるのだと思っていました。私たちは船倉深く監禁され、頭の上にはシートがかぶせられていました。そのせいで2人が窒息死しました。目的地に着く前から悲惨な状況に置かれていました。」

彼ら捕虜たちはタイから牛を運ぶ貨車に乗せられ、泰緬(タイメン)鉄道の建設現場に連れていかれました。
そこで彼らは絶望的な労働条件の下で、枕木を並べるための5メートルの溝を掘る強制労働者の列に加えられたのです。

全長415kmの鉄道線路を建設するため、約13,000人の捕虜と100,000人の現地労働者の命が犠牲になりました。
この事実は後に『枕木1本に死者1人』という言葉で有名になりました。

ブラス氏は本当の危険は、日本兵が無差別にこれといった基準も無く与える暴力にあったのではないと冷静な口調で語りました。
日本兵は捕虜を現場の労働者として働かせる必要があったため、体罰を加えるのも一時的なものであり、ブラス氏はそれを『行きがけの駄賃』暴力と表現しました。

泰緬鉄道07
本当の危険はコレラ、そして栄養失調だったのです。
ブラス氏は常に空腹であったことを覚えていますが、死なずに済んだ理由として、英国本土からやって来た兵士たちと異なり、もともと熱帯地方で生まれ育ったために生き残ることができたのだと考えています。

彼の兄は病理学が専門の見習い中の医師で、現地の水は飲む前に一度沸騰させなければならないという知識を持っていました。
その手間を省いた人間たちは皆「ハエのように死んでしまいました」。

高い降水量のため、クワイ川は季節によって水位が変動しました。
ある日水位が下がった後、それまで水面下にあった木の枝にコレラで死んだ人の遺体がいくつも引っかかっているのを目撃したことを、ブラス氏は憶えています。
「私たち捕虜は一列に整列させられ、隣にいる相手を殴るように命令されたことがありました。殴り方が弱いと、警備の日本兵がやって来て私たちを殴りつけました。」

ブラス氏は鉄道建設現場で2年間働かせられました。
彼と兄の食事はわずかばかりのコメ、そして筍を細く切ったもの、そしてタンパク質は見たことが無い種類のリスなどの小動物を捕えたものが与えられていました。

ブラス氏に映画『戦場に架ける橋』を見たことがあるかどうか尋ねました。
「ありますとも!」
彼は大声で笑いながら答えました。
「あの映画は実に美しい物語でした。でも完全な作り話です。」

太平洋戦インドシナ01
実際の捕虜たちは歌う事も無く、踊ることも無く、そして派手な演技をする余裕などまるでありませんでした。
「現実を体験させられた私たちにとって、『戦場に架ける橋』の映画は正直言って馬鹿げたものでした…冗談はやめてくれ、そう思いました。」

極めて劣悪な条件下で彼らは強制労働に従事させられましたが、驚くべきことに、ブラス氏は次に彼を待っていた運命に比べれば、鉄道建設の方がまだましだったと語ったのです。

《3》に続く
http://www.theguardian.com/world/2015/jul/26/nagasaki-man-who-walked-through-hell-jan-bras
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ブラス氏は捕虜として劣悪な条件の下で強制労働を強いられましたが、日本の一般兵士も末期にはそれ以上に無残な目に遭わされました。
玉砕と特攻です。
戦略的に無意味な上、戦術的にも勝算など無い中、南太平洋の島々では日本兵がアメリカ軍の多連装ロケット砲や重機関銃の前にむき身を曝すよう命令され、手足を吹き飛ばされ、内臓を引きちぎられ、挙句腐乱死体になって砂浜やジャングルに倒れていきました。
それもこれも他の部隊が玉砕したのに、自分が指揮する部隊が「おめおめと生き残った」のでは「面目が立たない」という愚劣極まりない理由で、何千人も何万人も殺されてしまったのです。
残された家族の方々は、生きていてさえくれれば、どんなやり直しでもできたものを…と思われたことでしょう。
巣鴨プリズンに収監された戦争指導者の多くが、その後『社会復帰』を果たしたのに…

自国の兵士をこれ程無残な目に遭わせたのは、第二次世界大戦(太平洋戦争)の日本軍だけでは無かったでしょうか?

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【 今日の報道写真から : 8月4日 】

アメリカNBCニュース 8月4日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

DAY01

セルビア領内の駅で、マケドニア・ギリシャ行の列車の到着を待つシリア難民の女の子。父親によればこの子はシリアで化学兵器の攻撃により、皮膚がぼろぼろになってしまいました。
いま多くの難民がギリシャやマケドニア経由でハンガリーに向かっています。
ハンガリーはEUの中で、ビザなしで入国可能になっており、ここを起点に豊かな西欧社会に入っていこうとしているのです。(写真上)

ヨルダン領内マフラクにある、臨時の難民用テントに弟を抱いて歩くシリア難民の男の子。(写真下・以下同じ)
DAY02
イタリアのメッシナで沿岸警備隊艦船からの下船を待つアフリカ難民の少年。
2隻の簡易ヨットに乗ってヨーロッパに向かおうとしていた約300人のサハラ砂漠南部のアフリカ難民が、3日の日にリビア沖で保護され、無事シチリア島に搬送されてきました。
DAY03
イエメンの首都のサヌアの学校でなわとびをする少年。
学校内にはザイド派の武装組織が支配するイエメン北部サアダ州から、自宅を捨てて逃れてきた難民たちが収容されています。
サウジアラビア人いるアラブ同盟は、亡命中のマンスール大統領を復権させようとザイド派の武装組織に対し、3月26日軍事作戦を開始しました。
day04
北フランスのキャンプで食料の配給を受けるために一列に並ぶ不法移民。
欧州連合は、フランス北部のカレー市付近で不法移民が増え続けている事態に、フランスに対し資金提供との様々な援助を行う事を決定しました。
8月3日カリフォルニア州クリアレイク・オークス近く、折からの大山林火災が続く中、バックファイアが発生した時の写真。
朝早く突風が吹き、火は瞬く間にハイウェー20号線まで飛び火しました。
Day06
http://www.nbcnews.com/news/photo/today-pictures-august-4-n404166

【 「私は戦争中の日本人を決して許さない!」泰緬鉄道から長崎まで:地獄を歩かされた英国人70年目の告発】《1》GRD

読了までの目安時間:約 9分

歴史の証人たちが死に絶えるのを待って歴史を歪曲する、そんな行為が許されるはずがない
18歳から21歳、青春の魂を日本軍の無差別暴力・組織的暴力にずたずたにされた元捕虜が告発する
連合軍が捕虜収容所を解放する前に、捕虜を皆殺しにしようとした日本軍

ジ・オブザーバー / ザ・ガーディアン 7月26日

from Bruma
ジャン・ブラス氏は、原爆の惨禍を目撃する以前、日本軍の捕虜として長期間に渡り強制労働に耐えなければなりませんでした。

ジャン・ブラス氏は原爆の惨禍を目撃する直前まで、日本軍の捕虜として長期間に渡り強制労働に耐えなければなりませんでした。

92歳になった今、ブラス氏は彼が耐えなければならなかった恐怖と残忍な仕打ちについて、オブザーバーの取材に答えました。
彼は今も尚、その記憶を消し去ることが出来ずにいます。

ブラス氏はどんな小さな命でも、決して奪うことはありません。
テーブルの上を這いまわるハエを見つけたブラス氏は手のひらですくい取り、窓を開けて外に逃がしました。
「命という事を考えたとき、反射的に心に浮かぶのは大切に守らなければならないという感覚です。人間でも、他の生き物でもそれは同じです。」
彼は妻とともに57年以上暮らしているロンドンの中心部にあるフラットのベージュ色のソファーに腰掛け、こう語りました。
「すべての命は私の人生の一部なのです。」

彼は92歳になった今も、多感な青年時代である18歳から21歳までの間に、日本軍の捕虜として目撃し、体験させられた許しがたい暴力を思い出すと冷静ではいられなくなると語りました。

色々な意味でブラス氏の経験はヨーロッパ戦線の数々の記憶とは対照的な、第二次世界大戦太平洋戦線の歴史そのものでした。

8月15日は対日本戦の70回目の戦勝記念日ですが、年々生存者が減り続ける中、ブラス氏が語ってくれた経験談はますます貴重なものとなっています。

泰緬鉄道02
実に長い間、ブラス氏は第二次世界大戦(太平洋戦争)において経験しなければならなかったことを、話そうとはしませんでした。
まして公的な場で語るのは今回が初めてです。
多くの生存者がそうであったように、戦争が終わった後、ブラス氏は自らが体験したことを周囲に語って聞かせることができませんでした。

その体験の苛烈さを、言葉だけで表現することは不可能だったのです。

「父は最近まで母にも私にも、決してその話をしようとはしませんでした。口を開くようになったのはここ10年ほどのことです。」
ブラス氏の娘、ジーナ・ジェニングズさんがこう語りました。

「私が思うに、話して聞かせたところでにわかには信じがたい話ばかりなので、生存者の人々はわざわざ口を開いて周囲の人々を不快にさせることはないと考えているのだと思います。」

しかし10年ほど前から、ブラス氏の体験にまつわる話が奔流のようにその口からほとばしり出るようになりました。
はじめは断片的なエピソードばかりでしたが、やがて全ての事実が語られ始めたのです。

彼の親友が殺されるのを、ただ見ているしかなかったときのこと…
兄が処刑されてしまうかもしれない…その恐れにいてもたってもいられなかった日のこと…
仲間の捕虜たちと一緒に自分たちの墓穴を掘らされたときのこと - 敗北が避けられないと知った日本軍は、連合軍が捕虜収容所を解放する前に、捕虜を皆殺しにするつもりだったのです。

泰緬鉄道04
「どれも身の毛のよだつような話ばかりでした。」

ジーナさんは自分が成長した後、父が権力に盲従することを完璧に拒否する人であることを心に刻みこまれることになりました。
そして彼女は自分自身も父が経験させられたことと向かい合い、それを受け入れることが今だにできないことに気がつきました。

「それは無差別暴力です。
それは常につきまとい、頭から決して離れることのない恐怖でした。
現代の人々はいわゆるごく普通の日常の中にいます。
しかし私たちが今一緒にいて大切にしている人々は、現実に極めて酷い扱いを受けていたのです。」

共通の友人を通し、最初に連絡を取って来たのはジーナの方でした。
彼女はその死によって、父が第二次世界大戦(太平洋戦争)で体験されられたことの記憶が無になってしまう事を恐れていました。
現在では1945年5月に対ドイツ戦に勝利したヨーロッパ戦勝記念日ばかりが脚光を浴びる中、英国軍兵士の太平洋戦線における事歴は、一度だけ映画『戦場に架ける橋』で取り上げられたことがあるものの、このままでは忘却の彼方に追いやられる危険がある、彼女はその事を心配していました。

泰緬鉄道06
これは一人の男性が体験した戦争の物語です。
同時にその体験について語ることの無いままこの世を去った、日本軍の捕虜となった数多くの連合軍兵士の物語でもあるのです。

《2》に続く
http://www.theguardian.com/world/2015/jul/26/nagasaki-man-who-walked-through-hell-jan-bras
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第二次世界大戦(太平洋戦争)が終わって70年、なぜここに来て日本では急に右翼の国家主義者たちの動きが活発になって来たのでしょうか?
1945年当時20歳だった方は今年90歳、30歳だった方は100歳…
彼らは、時の証人たちが亡くなられてしまうのを待っていたのではないでしょうか?
事実を知る人々が世を去ってから、圧力をかけ、自分たちの思い通りの歴史に書き換えてしまう。
まさに卑劣。

しかしその姿勢を強めれば強める程、強まる声もあります。
ここにご紹介するのも、そうした声のひとつです。
本文中にある通りブラス氏は正確には当時オランダ人であり、その後英国に帰化された方ですが、翻訳の中では英国人としてご紹介させていただきます。
長い記事で全4回ほどに分けて掲載します。

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【 今日の報道写真から : 8月3日 】

アメリカNBCニュース 8月3日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

DAY01
フランス北岸のカレーで、ユーロトンネル・ターミナルの近くの線路を渡る不法移民たち。
数百人の不法移民が海峡トンネルに入り、イギリスに向かう列車にもぐり込もうと機会をうかがっています。(写真上)

インドのコルカタで、学校に迎えに行った娘を自転車に乗せて泥水の中を進む男性。
モンスーン嵐による豪雨が襲い、インド東部では洪水と地滑りが相次ぎました。
インド政府の担当者と救援にあたっている団体は、この嵐で75人が死亡し、数万人が国が用意した救援キャンプに避難していると語りました。(写真下・以下同じ)
DAY02
マケドニアとギリシア国境をセルビアに向けて走り抜ける列車の窓から外を眺める、難民の男性とその子供。
不法移民と化した多くの難民が、マケドニアとセルビアを横断し、ハンガリーに入ろうとしています。
ハンガリーはビザなしで裕福な西欧社会に入ることが出来る、移民たちにとっての玄関口なのです。
DAY03
8月2日、カリフォルニア州クリアレイク付近で、山林火災の監視をする消防士。
カリフォルニア州北部では干ばつが続き、大規模な山林火災が多発しています。
day04
8月2日、カリフォルニア州クリアレイク付近で、迎え火(山林火災で、延焼を防ぐため前方の可燃物を焼き払うこと)をする消防士。
Day07
新しく開発された「エリカ」という名前のアンドロイド・ロボットと会話するジャーナリスト。東京の国立博物館。
DAY05
シリア軍ジェット戦闘機が、反政府組織が支配する北西部の町アリハのにぎやかな市場に激突した現場。解っているだけで27人が死亡し、多数が負傷しました。
目撃者はロイターの取材に対し、この日の早朝戦闘機は街の中心部に爆弾を投下した後、市場に突っ込んだと語りました。
Day06
http://www.nbcnews.com/news/photo/today-pictures-august-3-n403511

【 戦後70年、初めて日本の軍事力行使を可能にさせる安倍政権 】《後篇》NYT

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一般国民の十分な理解も無く議論も無い中、70年間日本人が守り続けてきた平和主義をなぜ壊す?!
安全保障関連法案に日本の国民がこれ程反発しようとは、アメリカ政府側は考えてもいなかった

ジョナサン・ソブル / ニューヨークタイムズ 7月16日

安全保障法案01
4月のアメリカ合衆国上下両院合同会議における演説の中で、安倍首相はすでに緊密な日米関係を一層今日強力なものにするための法律を制定すると誓いました。
しかし、「日米の同盟関係強化について、日本の国民からこれ程の反発が起きようとは、アメリカ政府側は考えてもいなかったはずです。」
スミス氏がこうコメントしました。

安全保障関連法案は自衛隊の名で知られる日本の軍隊が、国際紛争の場でアメリカ軍と緊密に連携して後方支援(兵站業務)を行い、さらに特定の状況下では掩護のための武力行使を行う事を可能にします。
そして両国の軍隊の協力方法について今年日米両政府が署名済みの、防衛ガイドラインを補完する目的を持っています。

安全保障法案03
憲法による軍事に対する制約を緩めていけば、いずれ日本が本来不必要な戦争に巻き込まれる危険説があるという、国民が持つ懸念を払しょくすることが出来ませんでした。
イラクでのアメリカ合衆国が主導した戦争は、この法案に反対の立場の人々によってたびたび警鐘の実例として引き合いに出されますが、安倍首相とこの法案の支持者は安全保障関連法案に含まれる条文の規定により、日本が武力紛争の場で実際の戦闘に巻き込まれる恐れはないと主張しています。
この法律では同盟国を守るために戦闘行動を起こすことが出来ますが、ただし「日本国民の生命と存立」が脅かされている場合に限られるとしています。
これについて安倍首相と対立する立場の人々は、基準が漠然とし過ぎていると反論しています。

この法案の先行きに新たな障害が発生するとすれば、裁判所に違憲の判断を求める訴訟が提出されることです。
ただし実質的に効力を発揮するかどうかは解りません。

安全保障法案05
第二次世界大戦(太平洋戦争)後、アメリカ軍の占領下において起草された憲法第9条の条文は次のようなものです。
『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』
複数の調査により、憲法学者の90パーセント以上は、安全保障関連法案が憲章に違反しているとの見解を明らかにしています。
しかしこれまで日本の裁判官の多くが、過去安全保障の問題に関して政府見解を覆そうとはしませんでした。

「一般国民の十分な理解も無く議論も無い中で、70年間日本政府によって確立されてきた憲法解釈を無視することは、大きな誤りです。」
最大野党民主党の岡田代表は、採決のボイコットの前にこう語りました。

安倍首相はこれまで、戦争することを厳しく制限している条文を日本国憲法から削除しなければならないと、強く主張してきました。
しかし憲章を改定するためには最終的に国民投票による賛成多数が必要であり、安倍首相は修理できないと見られています。

安全保障法案04
少なくとも現時点では憲法の解釈変更による安全保障関連法案の成立こそが、安倍首相が望める最大の成果であると見られています。

15日水曜日夜、国会の外で大勢の国民が反対を叫び、中では野党議員が声を荒らげ「安部政治を許さない」と書かれたプラカードを掲げて後記議するなど混乱が続く中、委員会に於いて安全保障関連法案が強引に承認されました。
野党議員は委員会議長の手からメモをもぎ取り破り捨てる一幕もありました。

この夜抗議のために集まった一般市民の数は、主催者側の発表で100,000人を超えました。
抗議の声を挙げるためこれ程の市民が集まったのは、福島第一原子力発電所の事故の1年後の2012年、原子力発電所の再稼働が発表されて以来です。
警察側は参加者について『公式の集計数』を発表しませんでした。

安全保障法案02
翌木曜日の夜は断続的に土砂降りという悪天候に見舞われましたが、抗議のために集まって来る人々の姿がありました。
彼らは「安倍政権の恥知らず」という言葉を叫んでいました。
そしてこう続けました。

「前途ある若者を戦場に送るな!」

< 完 >
http://www.nytimes.com/2015/07/17/world/asia/japans-lower-house-passes-bills-giving-military-freer-hand-to-fight.html?ref=topics&_r=0
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【 7月最終週の報道写真から 】

アメリカNBCニュース 7月30日
(掲載されている写真をクリックして大きな画像をご覧ください)

week01

7月29日、迫りくる山林火災から避難するカリフォルニア州ロワーレイク近くのモーガン・バレーの住民。(写真上)

7月26日のカナダ、ケベックのグランビーの農場で、猫に鼻をこすりつける乳牛。(写真下・以下同じ)
現在ハワイで行われているTPP交渉でカナダはこれまで、酪農製品の輸入枠の拡大を拒絶、会談の大きな課題の一つとなっており、アメリカ合衆国とニュージーランドは苛立ちを募らせています。
カナダは酪農市場全体が拡大するのでなければ、条約には調印できないと主張しています。
week02
7月29日、ブラジルのリオデジャネイロのティファナ・ビーチで日光浴をする人々。
week03
7月27日、フィリピンのケソンシティーでフィリピン議会に向かおうとした、政治の腐敗に反発・抗議する市民が機動隊に阻止されました。
week04
7月29日のフランス北部のカレーにあるユーロトンネル付近を歩く不法移民。
約2,100人の不法移民が21日火曜日、イギリスへ不法入国するため、ユーロトンネル入り口を襲撃しようとして、警察に阻止されました。
week05
7月26日、トルコ、イスタンブールの勇者の広場を歩く抵抗運動者。
ここはイスラム教の少数派であるはトルコ・アレビテ派の人々の聖地で、治安部隊が左翼の活動家を殺害した後3日間、、警察の機動隊とデモ隊との激しい衝突が続き、警官が死亡しました。
トルコは国内で一連の暴動が発生すると、国境の外でイスラム国(ISIS)とクルディスタン労働者党(PKK)に対する『テロ対策』のための2正面作戦を開始し、空爆と地上部隊による砲撃を加えました。
しかしこのことで、イラク北部でイスラム国(ISIS)と激しい戦いを繰り広げているクルディスタン労働者党(PKK)を敵に回すことになり、2013年以降保たれてきたトルコとクルディスタン労働者党(PKK)との休戦協定は危殆に瀕しています。
week06
http://www.nbcnews.com/news/week-in-pictures/week-pictures-july-23-30-n401061

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